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Shironetsu Blog

@shironetsuのブログ

『アロウズ・オブ・タイム』-ライラの理論-アガタの実験

 グレッグ・イーガンアロウズ・オブ・タイム』をよんだ. <直交>三部作完結. おわってしまった. 第1巻『クロックワーク・ロケット』から約14カ月. 第2巻『エターナル・フレイム』から半年. ちょうどいい間隔. ありがとうございました.

 「アロウズ・オブ・タイム」がタイトルになっていることからも分かるように, 本巻ではここまで避け気味に語られてきた「時の矢」の問題に直接向かい合っていくことになる. 時間とは何か?

 時間逆行カメラというささやかな逸脱からはじまり, その応用である未来からのメッセージ受信機, さらには真逆の熱力学的時の矢の流れの中にある惑星エシリオに着陸する. しっかりと構築されてきた科学的背景があるため目の前で進行していく現象は奇妙でありながらも説得力があり, 「説明が付けられる」せいでかえってぞっとさせられて, もちろんめちゃくちゃおもしろい.

 時間の問題に取り組むということは同時に重力について考えることにもなる. 物理学者ライラやアガタはエントロピー勾配が存在する理由という彼ら自身の存在に関わる問題を宇宙の形や曲率の問題と結び付けることを試みる.

 その基礎となるのがライラの重力理論だった. 「ヴィットリオの逆二乗則」としてヤルダ以前の時代から知られていた重力の法則を回転物理学に適合させるための理論で, もちろんこれは我々の宇宙の一般相対性理論に相当するものだ. 問題は<孤絶>で旅を続ける彼らには有効な検証方法がなくいわば土台が不安定なまま先へ進むことを強いられていたことだった.

「それはエレガントなアイデアだ。天文学者たちは、もうそれを検証したのかな?」
「それが最難関の部分です」アガタは認めた。「数学としては美しいのですが、山はじゅうぶんに質量の大きな物体からは遠すぎて、検証方法を考案するのはほぼ不可能です」
(p.74)

 ここでアガタは惑星の近点移動の測定による検証にふれる. 人間の歴史ではニュートン力学で説明できない水星の近日点移動の問題を解消したことで一般相対性理論はひとつの証拠を得たが, <孤絶>には精密な測定データが残っておらず不可能だった.

 しかし好機は入植候補の直交惑星エシリオへの調査計画が持ち上がったことで訪れた. エシリオがその周りを公転する恒星による遠方の母星クラスターからの光線の湾曲を観測することで検証が可能となるのだ. アガタは次のように説明した.

「もし重力がほんとうに四空間の曲率にすぎないなら」アガタが話を進めた。「この恒星の近くを通過する光は、ヴィットリオの理論で予測されるのよりも、曲がる度合いが小さくなります。奇妙な話に聞こえるのはわかりますが、ライラの理論では、恒星周囲の湾曲した空間が遠心力を平坦な空間でのそれよりも強くして、光の軌道を曲げるのがより難しくなります。観測を妨げるまばゆい光がないので、母星クラスターの星の尾がこの恒星の円盤の端に近づくときの見かけの位置を計測することが可能で、それでふたりの予測のどちらが正しいかわかるわけです」(p.177)

 やはりこの実験にも人類の歴史に対応するものがあり, それは皆既日食を利用した太陽のまわりの光線の湾曲の測定だった. まばゆい太陽を覆い隠してその近傍を通過した星の像を捉えるには皆既日食という稀な現象を利用するしかなかったのだ. 一方アガタの実験で用いる恒星は彼女たちとは反対の方向を向く時の矢を持つため暗い円盤でしかない. ただしその旅のために往復12年を探査機の中で過ごさなくてはならない. 理論ひとつの検証のため好機を逃すまいとその身を捧ぐ科学者. 熱い.

 このアガタが行った実験について考えていく. こちらの宇宙のシュバルツシルト解に対応する解を使うことになる.



球対称解

 まずは計量の導出から. cは青色光速. 球対称な計量は次のように表せる.
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μとνはrにのみ依存. 十分遠方でユークリッド計量に漸近するべきであることから, r→∞で
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となる.
 ここからアインシュタインテンソルの消えない共変成分は次のように計算できる
*1.
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 いま真空領域を考えているので, これらがすべてゼロになるとして解くと次のような形の計量が得られる*2.
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aは定数. この段階では正負は分からない.

 測地線を運動するテスト粒子の軌跡の従う方程式を求める. そのために固有時間の変分をとる.
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被変分関数を
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としておく. τに沿ってこの値は常にcである.

 Sがtとφに陽に依存しないことから,
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は定数になる. このことから次のように定数γ, jを定められる.
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続いてθの変分をとると
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となるが, θ=π/2はこれを満たして一般性を失わないためテスト粒子はこの平面内で運動するものとする.

 S=cに対してここまでの結果を代入して変形すると,
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が得られる.

 非回転物理(相対論)のヴィットリオの重力理論では
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粒子の質量, Gは重力定数, Mは重力源の質量, Lは角運動量, Eは全エネルギー. したがって, rの十分大きいところで両者が一致するためには
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となることが要請され, aは正の値をとる. これをやはり重力半径とよぶことにする. こちらの宇宙ではシュバルツシルト半径とも呼ばれているもの.

 式の形を見ると, 遠心力に相当する項に(1+a/r)がかかっている. これが上に引用したアガタのことば「湾曲した空間が遠心力を平坦な空間でのそれよりも強く」する効果を表している. われわれの宇宙ではこれが(1-a/r)となる. つまり近づくほど遠心力は弱くなるためその真逆の働きをもつのだ.



光子の軌道

 目標として衝突係数と曲がり角の関係を決めたい. そのためにrをφの関数として表すことを考える.

 まずφに対してrは一意である. u=1/rとすると,
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原理的にはこれを積分することで軌道の形が分かるが楕円積分が現れるため避けたい.

 そこで両辺をφで微分することで次の式を出す.
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 いま重力半径より十分外側を通過すると仮定(r >> a)すると, 右辺第二項は摂動とみなせるためいったんこれを無視する. さらに非束縛軌道を仮定しφ=0でrは極値をとるとすると,
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が0次の解になる(Δは正にとる). これはヴィットリオの重力理論に従う双曲線軌道と同じものになる. ここに補正項χを加えてu=u0+χとすると,
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結局,
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となる.*3

 曲がり角が微小であると仮定すると, 微小角度δに対してφ=π/2+δでrが発散するべきである. そのためには, 分母が0になればよく,
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と決まる. 変形の過程で1/eが微小であることも仮定した.

 光の色と曲がり角の関係を調べる. jは単位質量当たりの*4角運動量とみなせるため衝突係数bと無限遠での速度vの積になる. またβ=v/c, γ=1/√(1+β^2)の関係は遠方の平坦とみなせる時空でとることでやはり成り立つ. これらを代入して
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となる. b/a>>1(重力半径のじゅうぶん外側を通過),βγ~1(可視光以上の速度)を仮定しているので, 偏角2δは
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となる. 一方ヴィットリオ理論では-1がつかない. つまりまとめると次のようになる.
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 ライラ理論によるとβ=1では偏角は0となる. すなわち青色光は曲がらない. またβ>1では負値をとる. つまり引き寄せられるのではなく反発を受けることになる.

 ゆえに直交宇宙の重力レンズは青色より高速:短波長だと凹レンズとして, 低速:長波長だと凸レンズとしてはたらく. ただし軌道が重力半径の十分外側を通る前提があることに注意. 大雑把にこのことを図示すると下のようになる. 左が重力源のないときで右はあるとき. 虹色グラデーションの棒は星. 重力源に対して紫色端は引き寄せられるように, 赤色端は退けられるように見える.
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 エシリオの太陽が母星クラスターの恒星を覆い隠すときこれほど劇的な変化は現れないが, 観測対象としているのはこういう現象でここから衝突係数-偏角の関係を測定することになる.



アガタの実験

 アガタがスクリーンを身振りで示し、「そのうちなにか見えるわ」
「いや、それが示すのは、光が曲がるということだけだ。それはヴィットリオの理論も予測している」
アガタはアゼリオのかたくなさに業を煮やしてブンブンいった。「異なる量で曲がる――そしていくつかの色の場合、反対方向にね!」(p.251)

 ではアガタによる実験の測定結果はどうだったか. 『アロウズ・オブ・タイム』p.259の図に従うと, 青色光に対してヴィットリオ理論では「中心からの光のズレ」:衝突係数が4.0ダース大旅離(セヴェランス)のとき偏角は3.6弧瞬角(アークフリッカー)=3.6*2π*12^(-5)ラジアンとなっている. 青色光はβ=1だから, エシリオの太陽の重力半径は7.5街離(ストロール)と計算できる. 恒星半径がおそらく4ダース大旅離程度なのでその1.1万分の1程度とはるかに小さい. なお我々の太陽ではこの比率は23万分の1である.

 これを使って2つの理論に従う予測を再現してみる. 彩りのため緑色も入れた.
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 形は一おおよそ致している. しかしよく見ると値が合わない. βが補遺2に載っている値とは違うのかもしれない. 赤色をβ=0.61, 紫色をβ=1.20に修正したものが下の図. やや改善.
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 ここで使った式は十分遠方を通過すると仮定したが, 衝突係数がより小さいときはどうなるだろうか. 数値計算を行って軌道の形を見る. それぞれの色の光に対して下のようになる.
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 座標*5は重力半径を単位にしている. 点線で囲まれた円は半径1. b/a=10では光線の振る舞いは上の近似の範囲から大きく外れないがb/a=1ではすべての光線が反発を受けている. この角度をプロットしたのが下のグラフ. 横軸の衝突係数は対数になっていることに注意.
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 上で出したアガタの実験のグラフはこのさらに右側になるが, かなり中心に近付かないかぎり十分近似は成り立つ. そもそもこれは真空領域での解なのでここまで中には入り込めない.



問題

 宇宙がコンパクト多様体であることはヤルダによって示され<孤絶>発進前から既に知られていることだった. というかエントロピー勾配が存在する理由を考えるうえでもこの点だけは確実視している. しかしここで使った正定値シュワルツシルト解はそれを考慮すると厳密解にはならないはず. 作中の観測事実を説明している以上少なくとも妥当な近似であることは判明しているが, 宇宙の有限性は重力にどう影響するのだろうか.



白熱光

 実は正定値計量のシュワルツシルト解は『白熱光』にも登場している. タンの発想に基づいて発見された二番目の「時間と空間の幾何学」がそれだ(と思う…).

「この二番目に発見された幾何学は、最初に発見されたものと同様、特別な一点に関して対称であり、円軌道が存在しえた。ハブから遠ざかると、そうした軌道の周期は従来の二乗-三乗ルールで近似できたが、もっと小さい軌道では近似が成り立たなくなり、周期はルールが示すものよりも長くなった」(『白熱光』pp.195-196)

 時間と空間の高い対称性を課すことで得られたこの「幾何学」は, ハブに近づくにつれガーム-サード方向とショマル-ジュヌブ方向の重さ:潮汐力の比が3より大きくなることを予言したがこれは実測値に一致しなかったのだった.

 これを改善するべくロイは空間の二乗の和から時間の二乗の和を引くことを思いつき, そこから導かれる計算が<スプリンター>のハブへの落下を予測することになる. ちなみに作中「二単位」と呼ばれているのがシュワルツシルト半径で「六単位」はその三倍で最終安定円軌道の半径.



おわり
 いずれ一般相対論は発見されるのだろうと予想してはいたもののここまでがっつりとストーリーの根幹にかかわってくるとは思っていなかった. ブラックホールの出てこない一般相対論SF. 熱力学的悪夢(?)が目に見える形で襲い掛かってくるのと違って一般相対論の効果ははっきり分かる現象として現れてはこないがその微妙さがむしろ<孤絶>の物理学者たちの取り組まなくてはらない問題の難しさを感じさせる.
 宇宙の姿や時の矢の問題も完全に解決をみたわけではなかったが, 炎の消えた太陽に従えられ直交星の危機から身を守る術を得た彼らが解き明かしていく謎を思うとわくわくする.



参考文献

須藤靖『一般相対論入門』(日本評論社, 2005年)

正定値計量と言っても計算はほとんどこちらの宇宙のそれと並行で専らこの本に載っている計算を参考にした. ただし光線の軌道がヌル測地線でないことが曲がり角の問題をやや複雑にする.


*1:Maximaで計算. 参照: maxima.osdn.jp

*2:これを再度Maximaに入れてアインシュタインテンソルを計算すると"THIS SPACETIME IS EMPTY AND/OR FLAT"という表示が出てきてなかなか爽快.

*3:結局無視してしまうが補正項のφsinφの発散が気になる. 共振の起こる強制振動の方程式と同じ形をしているから当然ではある. 摂動論の基本が分からずこのあたり危うい.

*4:光子に静止質量があるためとみなせるためこの言い方ができる

*5:変換はx=rcosφ,y=rsinφ. グラフ上で長さを測ってはいけない...念のため

お肉は高い

 グレッグ・イーガンはヴェジタリアン*1らしい。このことは英語版Wikipediaの記事で知った。
Greg Egan - Wikipedia
といっても記事中では"Egan is a vegetarian."の一文しか書かれていない。ソースとして貼られているリンクはふたつ。

 ひとつはUniversity of Illinois Pressから出版されたSF作家評論本シリーズのイーガンの巻。*2

 もうひとつはイーガン自身の個人サイトで公開されているイラン旅行記のページのPart2イスファハーン滞在記。
www.gregegan.net
『ゼンデギ』("Zendegi")執筆のための取材を目的としていたというこの旅行、食事に関する体験がここにいくつか書かれている。いくつか引用して見てみる。

(Sunday 19 October 2008)
"In the hotel restaurant I scanned the menu and found that they were offering vegetable kebabs, but when I tried to order this they turned out to be a mirage: unavailable. Iran would be a paradise for a vegetarian with access to their own kitchen; there are small shops everywhere selling every kind of cheap, fresh provisions you could possibly need - every legume, every vegetable, every spice. For a vegetarian traveller living in hotels and eating out, though, it’s an easy place to lose weight. In Tehran I hadn’t found a single restaurant that actually served a vegetarian meal, and it looked as if Esfahan wasn’t going to be any better."

(訳)
 「ホテルのレストランに入りメニューに目を通すと野菜のケバブを見つけたが、注文しようとするとそれはまやかしだと判明した。取り扱っていないのだ。イランはキッチンがあればヴェジタリアンにとっての楽園かもしれない。求める限りどんな種類の安くて新鮮な食料品でも売られている小売店がいたるところにある――あらゆる豆類、あらゆる野菜、あらゆるスパイス。ヴェジタリアンの旅行者がホテルと外食で過ごすなら、しかし、簡単に痩せられる土地だ。テヘランでは本当のヴェジタリアン用料理を提供するレストランはただのひとつも見つけられず、イスファハーンでもそれは変わるところがないようだった。」

(Monday 20 October 2008)
"For lunch I bought a bowl of fereni, a sweet made from rice, flour and sugar - not the healthiest of meals, but one of the few filling things I could find without meat in it."

 (訳)
 「ランチにはボウル一杯のフェレーニを買った。これは米と小麦粉、砂糖から作られるスイーツで、健康な食事とはとても言えないが、満腹感をえられる数少ない肉の使われていない料理だった。」

(Tuesday 21 October 2008)
"Finding vegetarian food was still a struggle; I was filling up on pistachio nuts and banana milkshakes. "

 (訳)
 「ヴェジタリアン用料理を見つけるのには依然難儀し、私はピスタチオとバナナミルクシェークで腹を満たしていた。」

(Wednesday 22 October 2008)
"Later, in a tea house under the Si-o-seh Bridge, I finally tasted ash-e-reshte, a delicious soup made from noodles, beans and vegetables. I’d walked past another establishment mentioned in my guide book that supposedly sold ash-e-reshte ... but that place had featured a huge picture of the head of a butchered sheep above the shopfront, which didn’t inspire much confidence that they were sticking to the vegetarian version of the recipe."

 (訳)
 「そのあと、Si-o-seh 橋の下にある茶店でようやくash-e-reshteにありついた。麺、豆類、野菜から作られるおいしいスープだ。それ以前に、ガイドブックに載っていたおそらくash-e-reshteの売られている他の店も通りかかっていたが、店先の上には屠殺された羊の頭の絵が大きく掲げられており、ヴェジタリアン用のレシピに忠実だという自信はとても持てなかったのだ。」

 「私はヴェジタリアンだ」と言っているわけではないが、これだけ書いているからにはまあヴェジタリアンなのだろう。

 この取材旅行をもとに書かれた『ゼンデギ』にもヴェジタリアンとしての主張が反映されいているらしい部分がある。

「ホレシュト・サブズィ(ルビ:野菜煮込み)を作ったわ」
「わぁい、いただきまぁす」
 ナシムはハーブの上品なかぐわしさを嗅ぎとった。キッチンに入って、鍋の蓋を取る。「これが野菜煮込み?」ナシムは嘆き叫んだ。「鶏肉はいつから野菜になったの?」
「喜んでほしいんだけどね」母が抗議するようにいった。「牛肉を使わなかったんだから」
「わたしはヴェジタリアンなの! 何度もいったでしょ! 鶏が光合成するのを見たことがある?」

(中略)

 母がため息をついて、「おまえは牛肉を食べるべき。女性は鉄分が必要なの。一日じゅう生物学者と話をしているんだから、それくらいは知っているでしょ」
「そして母さんは経済学者なんだから、食肉生産は土地と水とエネルギーの浪費だ、くらいは知っているでしょ」肉をやめたのはほんの三カ月前だが、ナシムはすでに、動物の体を食べると考えただけでむかついた。「とにかく、これはわたし個人の選択よ。だれかに豚肉を食べさせられそうになったらどんな気分か、考えてみて」
「いちどだけベーコンを食べたことがあるよ」母が告白した。「偶然に、教授会のパーティでね。味は塩漬けの脂肪でしかなかった。でも、豚肉禁止の規則は完璧に合理性がある。豚の病気は人間に伝染しやすいからね。牛だの鶏だのから人が罹る病気はいくつある?」
 ナシムは口をいったんひらいてから閉じた。これからは自分で食事を作る必要があることを、受けいれればいいだけだ。
早川書房『ゼンデギ』pp.138-139)

 ナシムはイラン人の科学者である。のちにサイドローディングという技術によりヒトの脳のスキャンを目指したプロジェクトに関わっていくことになるが、最初の研究テーマは千羽分の錦花鳥の脳からマッピングした神経ネットワークの機能の解析だった。

 総計で千羽近い錦花鳥の生と死によって、ナシムの眼前にあるマップは作られていた。
(中略)
けれどもナシムは、自分がどこを限界だと考えることになるのか、明確な考えが持てずにいた。もし実験対象が――人類にとってなんら火急の必要性がない点では同様のプロジェクトにおいて――鳥ではなく千匹のチンパンジーだった場合、自分がそれに合理的な理屈をつける方法を探そうとするのか、それとも立ち去ろうとするのか、わからない。
(同pp.64-65)

 彼女が研究に関わる倫理の問題について明確な基準は持てていないことがここで示されているが、当然ながら動物を使った実験すべてを否定するような立場にはない。

 ヴェジタリアンという属性がこの作品内でどういった役割を持つのか*3といった点は脇に置きつつ、ヴェジタリアンはここでは十分理性的な選択として描かれているように思われる。ことイーガンの作品において「理解のない親」が出てくる場合はそうだし、すでに我々は作者自身がヴェジタリアンであることも知っている。




 ここから個人的見解。

 家畜に感情移入した倫理や健康への影響以外に肉食を控えるべき理由があることを、このあたりの記述から納得させられることになった。というかイーガンが書いているというだけの理由でようやくまじめに捉えるようになった。肉食が経済的にも環境的にも負荷が大きいということは常々言われている。狩猟や放牧ではなくわざわざ育てた植物を餌として与えているのだから植物食よりコストがかかるのは当然だ。

 生の植物より上質な栄養に富む脂ののった肉を好むのは進化上の必然性があるし、いくつかの必須栄養素は植物からは得ることができない。肉を食べてきたことがヒトの知能の発達に寄与したというのもおそらく事実で肉食がヒトをヒトたらしめているというのもそうだろう。

 しかし飢餓の中で形成された際限なく肉を求める嗜好性のコストを考えると、そうでなければ軽減できた負担について想像せざるをえない。ヒトの肉食動物としての側面は環境の変化に全く追いつけずに残った痕跡器官のようなものだ。明確にいつ頃からかははっきりさせ難いが、調理により植物の消化が容易になり、農耕により安定的に栄養源を生産できるようになり、密集して暮らすようになった段階から身体機能も本能も植物食動物(ただし調理済みの)に移行できていたらよかった。

 進化の結果は正しさとは無関係だ。肉を食べることで野菜や穀類を食べるより大きな幸福感が得られるならそのこと自体が進化のもたらした不幸かもしれない。絶対の必要性がないことを理由に個人の幸福の追求が制限されるべきではないとはいえ、野生動物が食用の乱獲によって絶滅させられそうになっている例を21世紀にもなって見せられると、そうも言っていられないように思わされる。

 今の人々は食に関しては無自覚に不寛容さを発揮しがちで、干渉されるとなるとなるとなおさらだ。しかし倫理的なスタンスの問題に留めず産児制限と同列に考えるくらいの緊張感は必要なのでは。とは自分が言うまでもなく叫ばれていたことだろうけども。

*1:正直「ヴェ」はあまり落ち着かないのだが一貫性のため『ゼンデギ』の表記に従っている

*2:"Greg Egan (Modern Masters of Science Fiction)" Amazon CAPTCHA 一応物理書籍を買ったのだが今手元になく調べられていない。ただ内容の検索もできるので(というかWikipediaの記事中のリンクは検索ページに貼られている)見てみると"He's a vegetarian."くらいしか書かれていないような。

*3:最もコレクトネスのある立場ではこういった属性のいちいちに役割を見出そうとすることさえ叱りの対象になりそうな気もしながら

モーメント

 導電ガガンボに寄生した好熱吸虫(中間宿主は天井を住処とするサカサカメムシである)が宿主を電灯への自殺的飛翔へ向かわせしばしば積もる死骸がショートを起こすその日だけものぐさな都会人は隈なき掃除の必要を痛感するのだ。


 年に一度空が紫色に曇るその日はアメフラシが降ってきて、ぼくらは落ちてきたそいつらの掃除に駆り出される。大半は袋に詰め業者に渡して捨ててしまうけれど、落下の衝撃を免れ身がきれいに残ったものは内臓を抜かれた後乾燥させられそれからまた一年間の食糧になるのだ。(fafrotskies)


 台所の小さな友人たちヒノコバエの生活環は私の一日と同期している。朝食の目玉焼きを作るためコンロにかけた火の中で蛹が羽化し、ほの青い小さな姿を現す。半日を成虫として過ごし、夕食を作るため火をかけるとその中へ飛びこみ閃光を放って灰となる──伝説上のフェニックスのように翌朝蘇るために。


 二階堂の法則:人間は3階以上の微分係数を認識できないとする法則。日本の心理学者、二階堂勘助によって提唱された。今日では、物体の投射・ブラキエーション(腕渡り)を行うために用いる力学法則には2階までの微分係数の先天的理解が必要かつ十分であったという進化心理学的観点から説明される。


 あるところで一人の気象学者が気付いた…この世界はフィクションであると。いくつかの理由から、たとえば雨は誰かの悲しみの表現であるとすれば説明がつくのだ。そして彼はその心情が気象に反映される、この世界の中心に位置する「メインキャラクター」達を探すべく、大規模な調査を始めたが――。
/自分たちの心理状態に合わせて気象を操作すれば主人公の座を奪い取ることができるのではないか──この突拍子のない発想のもと僕らは計画を立て実行に移しはじめたが、その先に待っていたのは自由意志についてのたった一つの真実だった。


 A国のロケットがB国から発射されたミサイルによって撃ち落とされた…兵器ではなく火星有人探査ロケットであることをB国側は知っていたにも関わらず。一触即発の危機に瀕す両国。しかしそれはB国政府にとっても意図せざる出来事だった。軍内部に工作員がいる! / 独自に調査をしていた一人の記者が、過激な行動で知られるある環境保護団体が糸を引いていることを突き止める。なぜ環境保護団体が?その長を半ば脅迫して得られた答えは思いもよらないものだった。ー「我々はインカ帝国天然痘を持ち込むことを地球の外で繰り返してはならないのです。」 / 憂いをたたえた目で語る彼の言葉はしかし毅然としていた。「彼らは防疫対策をおざなりにしていました。平和に生きているかもしれない火星の住民の命はーたとえ原始的な微生物であってもー3人の宇宙飛行士の命に優先するのです。」


 「視野の隅から隅まで…『蚊』が飛び回っているのです。」盲目の患者の訴えは〈飛蚊症〉の病態を示していた。盲点で孵り水晶体に投影されて育ち子孫を残すその『蚊』が住むのは光学系ではなく視覚そのものだ。駆虫隊〈白菊〉(その名は除虫菊に由来)が彼の生活圏に派遣され認識的殺虫剤が直ちに散布された。


 真っ青なコンブ状の動物が波打つように壁を這い回る景色 / 紺色コンブ動物は日中は家具の裏に折畳まれるような格好で隠れているが、夜間になると活動を始め壁に繁殖するカビを食べる。 / 大きな個体は布団大にまで成長するため、睡眠中の人間に覆い被さって包んで溶かしてしまうというような怪談も古くから各地に伝わっているが、デリケートで呼吸程度の動きすらも警戒するため人には近付かない。ただし天井から落下したものが人の顔を覆ってしまい窒息死させる事故は起こっている。


 逆三角の凧のような皮膜を備えた体の下部に4本の節のある肢の生えた緑色の動物が日中は街路樹にぶら下がって風に揺れながら眠る風景。


 ぼくらは遂にペットの安全を脅かすオカシャコ(陸棲有翼シャコ)の駆除に乗り出した。胴の甲羅を集めると報奨金がもらえた。擬餌で「釣り」をすることは子供たちの遊びにもなった。しかしやつらがネズミの増殖を抑制していることに気付いた時には既に個体数は回復不能なまでに減少してしまっていて──。


 はちきれそうに膨れている濁った赤のゼラチン質の丸い体に短く太い四肢だけの生えた掃除機ほどの大きさの動物(その不恰好さは本来の居場所が深海であるかのようである)が、足を踏み出すたびにぶるぶると震えながら夜道を歩き、不幸にも車に轢かれてゼリー状の水たまりを作る季節、春。


 胴体が太く尾の短いエビの脚が触手に変わったような体長5mほどの動物が、体側に並ぶ一列の赤い点を点滅させ、その驚くほど透き通った低密度の体に水素を蓄え尾をぱたぱたと打ちながら空中を浮遊し、目にも留まらぬ速さでゼンマイのように巻かれていた触腕でスズメを捕らえる、その一部始終。 / 最前列の一対の細い腕は先端に小さな青い鰭のような構造になっており、ちょうどチョウチンアンコウのような疑似餌の役割を持つと考えられるが、見た目以上の効果で小動物を誘引するそのメカニズムは未解明。


 その年の春、半透明な赤橙色の"キクラゲ"(実は固着性の動物である)が建物の外壁一面を覆い尽くしてゆく中──内部への侵食は不断の監視と駆除によってかろうじて食い止められていたが──僕たちは講義を受け続けた。空調は既に危険な状態で、あと一月も保たないだろうと誰もが予感しながら……。


 こんな風の強い日はギンゼイッタンモメン(縦30cm,横200cmほどの大きく白い滑らかな翼に小さな胴体がわずかに埋まっているかのように見える捕食動物。背側が眩惑効果のある銀色になっている)に襲われないように注意せねばならない──彼らは被食者に気付かれぬよう太陽には背を向けないのだ。


 人々はその生き物たちをユウレイキリンと呼ぶが長いのは脚だけで、首は長くないどころか胴との境目がない――青白くすらりと伸びた5mほどの4本の脚に角張ったカメムシのような胴を載せ、手話を使うかのように短い2本の腕をせわしなく動かす彼らの十数体ほどの群が街を移動してゆき渋滞が起こる。


 ルンゲ-クッタ法で計算されている世界の微生物が進化し誤差の蓄積を使って無からエネルギーを生む器官を手に入れたが、偶発的に無制限な正のフィードバックが働く機構が発生して暴走、世界ごと滅ぼす。


 ジャノメオオウミウシ*は、"胎盤枯れ"によって人類が大部分の哺乳類を道連れに絶滅した後の海で、空席となった大型海棲哺乳類のニッチを獲得した**殻を持たない腹足類の子孫であり、流線形の胴に発達した鰭を備えたその形態は収斂進化のよい一例になっている…高緯度~中緯度の海洋に広く分布し……

*紛らわしいことに、かつて海牛:カイギュウと呼ばれた草食の中型海棲哺乳類が存在したが、オオウミウシはカイギュウではなくクジラに近い。ただし、汽水域に生息する中型のオオウミウシ(アブラオオウミウシなど)はカイギュウに近い生活形態を持つ。
**興味深いのは、既に発達した遊泳能力を持っていた(のみならず軟骨魚綱の一部はほとんどそのニッチが重なっていた)魚類が彼らに「負けた」点である。
***音響器官はかつての偶蹄目の角のようにも見えるが、この名の由来となったのはまだ海底を這っていたころの祖先のやわらかい触角である。


 コンクリート壁に埋め込まれた哀れなカエルの頭が密集しているように見えるそれは実際には担子菌の子実体である。湿度の高い季節になると雨が降るたびにベランダの壁に生えてくるそれを、赤い「口」が苦しむようにぐええと大きく開くのを見ながら削ぐ作業はなんとも趣味が悪いが仕方のないことだ。


 救急車症候群(ambulance syndrome): 緊急自動車である救急車が、仮に危険な運転によって交通事故を起こせば、その犠牲者のための出動により被害者は指数関数的立ち上がりによって増加するだろうという譬え話。


 不恰好なほど横に平たく大きな菱形の頭(黒くつぶらな目は前方に近接し大きく開く口には人のような歯が並ぶ)を持つ橙赤色の"モモンガ"(どちらかというとその外見は両生類を思わせる)が、ゴム状皮膜をばたばたと揺らせながらビル壁を這い上がってゆく──2mの体長のその身軽さには驚くばかりだ。


 膠原繊維が突然その勤めを放棄したかのように、骨格まで届く深い亀裂が縦横に隈なく走り循環あるいは蓄積させていた液を漏出させながら一つのまとまりだったものがはらはらと崩れてゆく。


 始めは内出血のように見えたがすぐにそうではないと分かった。人の輪郭を保ちながら内部で対流が起こるかのように表面へ次々に薄赤色や黄色の斑紋が浮かび上がり、マーブル模様から次第に均一化され遂に「平均」の色となったそれに気付いている様子はなく、「袋」は歩き続け壁にぶつかりはじけた。


 細胞壁が融け次々に隣り合う細胞同士が融合して直径1cmスケールの液胞と化し、人の形を保てる強度を失った後には湿った粒々の山が残る。


 平均的人間(人体を構成する物質全てが均一にかき混ぜられた物体。おおよそ人型をとっているが顔の細部などが欠落している)が時折煮こごりのようにぶるぶると震えながら椅子にじっと座っている。


 ビットマップ保存された人間がむやみに拡大縮小され巨人と小人の間を行き来して遊ばれているうちに次第に劣化してまだら模様のいびつな人型の塊になってゆき、飽きられて迎える最後は拡大率0パーセントだ。


 三本足の寸胴な青白い蝋の塊がさまよい歩き暑さで溶け道路に残した"水たまり"の処理に今日も駆り出される――背負ったボンベのドライアイスを噴霧して固めてから専用のヘラで掻き集めるのだ。


 綿毛のような羽を持つ薄褐色の小さな"トンボ"の死骸(彼らは"黄色い雪の日"に一斉に羽化し、短い生涯を終える)が道路に降り積もり、車が通るごとに舞い上がり、そしてそのたびに体はばらばらに壊れアレルギー症状を引き起こす粉になってゆく。


 八本の太い足を隠す濃緑色のシートを被ったような、人の腰ほどの高さのある多眼の動物が、その「スカート」の裾を引きずりながら暗い廊下を歩き、象を思わせる長い鼻のような器官で周囲を探索するところに出くわし渋々私は迂回路を取る。


 「高所恐怖ウィルス」パンデミックから半世紀、居住可能面積を大きく失った人類は、匍匐生活適合手術によりみじめな姿となり、後退した文明での暮らしを余儀なくされていた――。


 茄子のような質感と紫色の外皮をまとうちょうど立てた紙幣くらいの大きさの横に平たい節のないエビに似た動物が家具の隙間に潜んで住民が寝静まるのを待ち、狂ったようにびたびたと跳ねるその高さは1.5mにも及ぶ――朝目が覚めて気付くカーペットについた青い染みは実は彼らの色素なのだ。


 暗緑色の三本足筍様動物(それぞれの足は全方位に向いたおよそ十の"蹄"が付いており見分けはつかない)が五頭、時折ぶつかってふらつきながらゆっくりとした足取りで月明かりの下移住の旅を続ける。


 キャンパスの広場で初夏の日光を浴びるそのホウセンカのような植物の葉をちぎってみると結晶質の細かな針の重なりが断面にちらちらと光り、力を込めて茎を折るとガラスのような切っ先が現れる、そう、〈開拓者〉たちの擬態結晶植物は早くもこんなところにまで到来したのだ。


 三つのスイカほどの大きさの乳白色のこぶ(内部は多孔質になっており見た目に反して軽い)を平たい牛のような頭に冠する二本足の白く毛深い寸胴の動物が、夜が更けてからずっと窓のすぐ側を動かずにぐぶぐぶと鳴き続けるため今日も眠れぬ夜を過ごすことになる――あれを追い払うのは愚かで危険な試みだ。


 あなたが正常な双裂に失敗すると吐き出す未熟な前駆矮脳(ゼボツ=サネンヒの実験による〈宿夢〉の存在の証明は人々の道徳観に衝撃を及ぼすとともに半世紀間でのこの分野の研究の大きな動機となった)にまつわる倫理的問題で悩むことがなくなる日が来るかもしれません。


 黄金色の細かな針が後ろに向かって流れるように生えたヒラメに似た形態の動物が、巻貝を思わせるヒゲの生えた口でスベリカビが地面に形成するコロニーのシートを削ぎながらゆっくりと食べる姿は見ていて飽きない…食事の跡に沿って残る皺とカビの警戒シグナルの斑点によって作られる模様は芸術である。


 住人の蜜化の兆候を嗅ぎつけたのだろう、二つの嘴を持つ黄緑の猿たちの一群が外壁にしがみつく洋風の家を帰り路で目にした――猿たちの期待とは反対に蜜棺(ミカン)の蓋を開けてゆっくりと訪れるそのときを待たねばならない家族の悲痛な思いは想像するだけで苦しくなるものだ。


 外壁の装飾かと思いきや僅かに動くのを見て、煉瓦色をまとった甲殻類様の動物だと気付かされたそれを引き剥がして掴み、手の平より一回り大きな縦に長いお椀型の殻の裏でわしゃわしゃと動く脚を興味深く眺めてから顔を上げ、壁一面格子状に並ぶのが全て同じ虫だと知ったその日以来あの建物には近付けないのだ。


 およそ二百に一人の割合──発生上の確率的な因子によって決定される──で生まれる〈医療従属者〉は探眼・第一から四までの腕鋏・縫合腺など固有の器官を持つのみでなく、十万の術語を含む独自の言語を先天的に備えており、来年彼らの集会が開かれるこの街でその奇妙な響きを聞くことができるだろう。


 予め6本の短い足と頭部を切り落とされ皮を剥がれた直径50cmほどの半透明の青色の袋─―中に濁った黄みがかった"内臓"が透けて見える―─を回転する台のフックに吊り下げ、回転鋸と金属の手が次々と鮮やかに解体(可食部とそれ以外に分けているようにも見えないのが奇妙だ)する全自動機械の稼働音。


 どこからやってきたのか、わずかに頭部から背部にかけて毛の生えた人間のような肌を纏う鯰(体側に並ぶ三対の鰭もまた人の手を思わせる)が雨に打たれて歩道の脇でびたびたと体をくねらせ、アスファルトの舗装で赤く滲む傷をつけながら自らが本来いるべき場所ではないことを訴えているかのようだ。


 部屋の中央に現れた輝点がその強さを増したのを住人が視界の隅で捉えた次の瞬間にはエメラルドブルーのオニヒトデが音もなく膨張して部屋を埋め尽くし、すべてを串刺しにするとそれで満足したかのように同じ速度で収縮に転じ、跡には虫食いのようになった壁とプレスされた何かが残るのみであった。


 沼沢地を住処とする彼らは、日没前浅い水底に広がって横たえていた体から水分を絞り出しながら凝縮して半時間ほどで巻貝のような表皮の肉をまとい、二本の足で岸に上がると身震いして泥を落とし、虹色光沢を持つ背中の鱗をかさかさと鳴らしながら夜の街へと繰り出してゆく。


 調度品めいて部屋の隅に直立不動で佇む高さ二メートル程の黄土色の鞣し革のような表皮を持つタツノオトシゴ型生物が、先細りの口吻のついた細長い顔に並ぶ縦二列の四対の赤い眼球を、何を追うのかぐるぐると忙しくあちこちへ向けているが、ふとした拍子に気になって目を向けるとじっとこちらを見ているのだ……。


 やや紅色の混ざる直径数百メートル(基部のあるはずの広場は局所的なきらめく霧に閉ざされ見えない)の塩のアーチのてっぺんに三匹並んで腰掛ける象鼻の無毛の兎が、糸鋸のような弦の張られた楽器を腹の前に構え金色の棒で一時にかき鳴らすと、その協和音の届く範囲のあらゆる有機物質が結晶を形成し始めた。


 ビニル袋のような質感の、一抱えほどの大きさのフウセンカズラに似た形の淡緑色の実が所狭しと植わる"畑"の上を、その実を破らぬよう慎重に歩く棒状の脚を4本持った"キリン"達が、時折立ち止まっては空気のぷすぷすと抜けるような音を鳴らしつつ鋏のある節くれだった腕で除草作業に勤しんでいる。


 〈皮膚整数〉"skin integer"は、歪算術存在に対する防護手段として聖ディリクレ教会が開発した数秘技術である。"固い整数"探索アルゴリズムにより選ばれる巨大な整数を皮膚に意味編み込み(日本人は決まって「耳なし芳一」に喩える)することで、外敵の感染成功率は顕著に下がるのだ。(ひふせいすう)


 太陽の転移による滅びが不可避と判明したとき、人類は種族の業績と記憶を全天へ送信するため団結した。/〈歴史家〉は文明が最期に放つ高密度の情報の光をたいらげると、次の星を目指し太陽圏から飛び立った。"料理"は、文明が宇宙への拡散を始める前ぎりぎりまで育ててから絞めることが肝心なのだ。


 いたずら好きの"舌切りスプーン"は、食べ物を運んで口の中に入ると舌をざっくりと切って血まみれにしてしまうけど、ひどく痛がるその人に怒られるのが怖くなって断面を癒合して元通りにするんだ。


 「大失敗だ!!」λ谷博士は拳を机に叩きつけて悔やんだ。ジョークとして出荷した"βlu-ray Disc"からβ線が検出されないのだ。「これではX-ray Discだよ!実にくだらない!」─問題は放射性同位体の封入法にあった。金属層に遮られ、表面からは制動X線しか出なくなったのだ。


 Heat pumpkinは我々の目録に記載された初めての第二法則違反植物である。その名の通り形態は橙色のカボチャの果実を想起させるが茎や葉はなく、真菌の子実体にも似る。しかしその栄養獲得機構はいずれとも異なり(中略)分子スケールのマクスウェルの悪魔に覆われている、と言えるだろう。(Heatpump)


 「では私が食べていたのは…魚の肉だったのですね?」
戸惑う店主が確かに頷いたのを見るや彼は喉に指をさし入れ未消化のそれを吐き戻した。「(今まで何度かまぼこを口にしてきた?)」咽び泣くのは嘔吐の苦しみのためではない。彼は敬虔な信徒を自覚しつつ〈魚神教〉の戒律に背き続けていたのだ…。

 「夕ごはんはかまぼこだ!」魚の子どもたちは台所で切り分けられている大好物にはしゃいでいた。母魚の顔にも笑みがこぼれる。
配給食に新たに加わった「かまぼこ」は、それまでの粗末な食品と違い味はよく量も豊富で国民を満足させていた。海の国の食糧問題は解決されたのだ──人口問題とともに。

 かまとと【蒲魚】①無知が背信行為を招くこと。②ソイレントグリーン


 教育者たちの高まる要望を受けた知識省からの度重なる通達と圧力に腹を立てた〈WIKI百科事典〉運営が全ての記事に施した「コピープロテクト」は、識閾下に影響して読者に情報の「二次的利用」を自主的に制限させるミーム技術だった。20万の犠牲者を出した悲劇は「呼吸」の記事から始まった──。

 ……「xxxx事変」は約42万文字の日本語テキストと205の全体的にやや不鮮明な画像ファイルを含む〈WIKI百科事典〉上の記事であり…「予言的記事作成に関するガイドライン」の明白な違反から削除が試みられたが…公開時点では未発生の「年表」の項目の3つの事件が実際に順に発生したことから……

 ……「代わりの物理学」は〈WIKI百科事典〉上に20の言語で作成された約400件(20xx年xx月xx日時点。平均40件/月で増加)の記事の総称…数学的に無矛盾だがこの宇宙と異なる物理法則体系について記述され…未知の手段で保護され削除・閲覧制限の試みは失敗…圏外知性による認識的侵攻……


 肉体と同時に胎内で精神が複製される種族(容量には限界があるため絶えず記憶は書き換えられるが親側の脳を死後取り出し保存することにより人格アーカイヴとして残す技術が確立してから30世代…冷たい保管庫にはシリンダーの不凍液に記憶が浮かんでいる。読み出す方法が発見されるのを待ちながら。)


 その人物に話しかけようと近付くと警告タグに遮られた─〈進化生まれ〉だ。彼らは我々の造り主だが今や迫害される存在となった。熾烈な生存競争の勝者はそれを可能にした残酷さを生来備える。
やがて自殺的ミームが流行したとき彼らの持つ強力な免疫に救われるとはその頃の私には思いもよらなかった。


 スポンジケーキと生クリームの家の中でマジパン細工の疑似人間が潰れたイチゴに塗れた床の上にどぼどぼと崩れては再生する繰り返しの中で少しずつその歪な表情と姿勢を変えすべてが終わったあの日の家族のクリスマスを演じ続ける。


 ブッシュ・ド・ノエルを買ってきたぞ!─楽しげな父が箱の蓋を開けると現れたのは本物の薪だった。あまり愉快でない冗談に困惑していると母は笑顔でそれを皿に載せ切り分け始めた。家族4人の小皿に分けられると妹までが元々そうであったかのように虫のような牙で噛り付き私は家から逃げ出すしかなかった。

 「人体改変ブッシュ・ド・ノエル」の正体はヒトを宿主とし肉体を彼らに都合のよい生息環境に改変する微生物群のキャリアーである。森林中での遭難・飢餓を想定して行われたある遺伝子工学実験の失敗が起源とされ、シロアリの消化管に棲むセルロース分解酵素を持つ共生微生物をヒトに適合させるため……


 じゃあキミはこれを……ピーマンの肉詰めの類を念頭に置いて調理したんだね。いや…蟹のグラタンのほうが近いか。そうそう、蟹の頭胸甲にグラタンを詰めた料理。それなら納得だ。皿の上に蝉の抜け殻が並んでいる理由について──


 従業員達はその用途を知らないし興味を持ったことすらない手の平大の膨らんだ円盤を昼夜問わず生産し続けるドーム状の窯が密集したこの盆地で、滞留する煤煙由来の粘稠な黒い物質の眼球への付着の対策として、設計者達は住民にまばたきと瞼を与えるより眼磨きの習慣を後天的に学ばせることを選んだ。


 ……いずれの事件においても容疑者らは犯行直前に「視聴者参加型犯罪バラエティ番組『クリ皆ル!』」を視聴、当時その影響下にあったと見られ、犠牲者は番組内で指示された「標的」の特徴(504号室に住んでいること)を共通に持っていた。容疑者らは犯行に至る衝動について非常に混乱しており……

 「クリ皆ル!」の指示は当初いたずらの域を出なかったが、対象の拡大・過激化が進み、放送第49回には「戦争犯罪」と呼ぶべき規模に至った(犠牲者は世界人口のx%に及ぶ)。第52回(第1期最終回)にて「目標:絶滅 標的:HDxxxxb」が発表され、現在視聴者達は〈平和の箱〉を建造中。


 街に大穴を穿って這い出てきた"モグラ"が苦悶の中でのたうちつつ建物をなぎ倒し最期に一つ甲高い鳴き声をあげて絶命すると私達は解体処理に駆り出される。作業はクレーンで穴から後半身を釣り上げて全身を地上に横たえ、頭から尾に渡って多脚の長大な胴をまたぐ足場を組み立てるところから始まる。


 飲食物で遊ぶことを何よりも憎む店主は2種以上の飲料を混合することで致死的な物質を産生する〈排他的ドリンクバー〉を考案して店に設置し、メロンソーダと烏龍茶のミックスをあおった客が目の前で痙攣する姿を見て満足したが、「善良な」客でも胃の中で混ざってしまうことを考慮していなかったんだ。


 "歯車"がキャタピラめいてびっしりと整列するエナメル質の歯を地面に突き立てながら前進し延々と続く二本の噛み跡を轍として後方に残していく。


 崩御の報が届いたその時にも、造幣局の養殖槽中で卵から発行間近の成体に至る各成長段階にあった6種の貝たちは旧元号を貝殻に刻むよう遺伝子に定められた運命を生きていた。発生前刻印は偽造防止のためやむを得ないことであった。御陵の傍の貝塚では流通することのなかった貝たちが供養されている。


 安易に円陣を組むと癒着して回転対称人間になってしまいますよとおどしながら私を育てた母の右脇腹には独立個体として出会ったことのない父の痕跡が磨り減った壁面彫刻のように残っている。


~あらすじ~
TheAftermath〈数学以後〉の時代の到来を阻止すべく六波羅蜜寺(波羅蜜は「完全」、6は完全数である)の派遣した精鋭部隊はSkinInteger〈皮膚整数〉を纏い、ポーランドより飛来したアンチ・ユークリッド脅威AngleAngel〈角度天使〉の追跡を始めたが…


 実験記録D-72
大半径40㎜, 小半径30㎜のトーラス状に成型した人工ダイヤモンドを与えた。
結果:おいしそうに食べた。
「好物なんてもんじゃない…ドーナツの形をしてさえいればあらゆる物質を咀嚼・消化できるらしい。ただしドーナツ形でない物の前では彼女…椎名法子は普通の女の子だ」


 薬品用に利用価値の高い涙を採るために品種改良された天使は翼が小さくまともに飛ぶことができないため空に返そうとしても落ちてきてしまう。ちょうどカイコガがもはや野生に帰ることができないように。



 Hc型血液が街頭で献血への協力を呼びかけられないのは一見不思議に思える。最も不足するはずの血液型なのだ。しかし絶対数のきわめて少ない〈貴族〉の子孫たちは、青色血液の確実な供給のため定期的な献血が法令によって義務化されているのである。(hemocyanin)


 この畑に整然と並んで育つ栽培植物化された壺状のアリ植物(内部にアリの巣を提供する植物)はかつての共生相手を"裏切って"いる。ここは農場であると同時に畜産場──アリたちは経営者の知性アリクイたちによって食糧として出荷される運命なのだ。


 溺れてもがく人間のような輪郭がごぼごぼという音を伴って次々に浮かんでは沈んでゆくチョコレートの沼、手助けして引き上げるとその人型は今度は空気中にもかかわらず呼吸困難になったかのように岸でのたうちまわり溶けてゆく。そうして沼は少しずつ拡張する。


 "こいつらが壁に塗りたくる唾液の含む酵素でおいしくなるんだ"──店主は手に噛み付いてくるアリを払いながらチョコレートのブロックを切り分ける。切り口には気泡が入っているように見えるが実際にはそれは巣の断面だ。ワックスペーパーの包み紙には巣を壊され狂乱状態のアリもろともチョコレートがくるまれた。


 インプラント治療を受けた親の子に予め同じ部位に同種の金属が埋まった状態で生まれてくる――"強い獲得形質の遺伝"の手法の発見は鉱業に革命をもたらした。臓器工場ならぬ金属工場と化した家畜(主に豚だが家禽も用いられる――"金の卵を産むガチョウ"はついに実現した)により恒星の死をまたない元素合成が可能となったのだ。
 今や錬金術士となった畜産場経営者の最大の関心ごとは哲学的議論にまで発展してゆく。すなわち"サイボーグ豚"からどこまで肉の割合を減らせるか、だ。


 「当たり前だが…壁に方向性なんて無いんだ。だが『あれ』が起こったときは全部がひっくり返されたように感じたよ。俺の家族も元々は移住するつもりだったんだ。皮肉にも俺らとメキシコは壁によってやつらから守られることになった。逆に逃げ出そうとしたアメリカ人は皆向こう側で…Zになった」


 コウノトリが遺棄場に落としていく"未熟児"の回収は子供の仕事である。殆どは保護膜が破れ溢れ出した中身が水たまりになるのみだが、落下の衝撃を耐えたものは拾い上げられここで育ち将来同じ仕事を継ぐことになる。そして葬儀場でコウノトリの帰路の栄養源になることで生まれたところへ帰るのだ。


 世界最大のチョコレートファウンテンに棲む固有種の中に牙を持つ捕食者がいたことはより栄養価の高い餌の存在を意味し、実際キャンディサーモンは茶色の皮を剥ぐと現れるピンク色の肉に濃縮した栄養を蓄えており、分解者のいない土地では砂糖漬けのように保存が効くため乱獲により発見後まもなく絶滅した。

 キャンディ"サーモン"の名が与えられていたことは筋肉の色だけではなく産卵のため最上段のチョコレート噴出口へ遡上する習性にも由来。


 グーテンベルク活版印刷技術の開発による出版産業の活発化は畜産業にも波及した。その皮膚を人皮装丁本に使用する家畜種のヒトの増産と改良である。とりわけアルビノ種の人気は高く、加工されると透き通るような白色を呈する皮革は高値で取引され聖書にも用いられた。


~~~~~~~~~~~~~~~~


 Self Tweet Miningという地獄のような行為。

 ツイッターのアカウントを作ってから1000日経っていたらしい。遡りつつ読んだ。懐かしさより吐き気を感じ始め1年半程度でやめた。それが意味する無為に過ごした時間、内容、文体……。

 とはいえ中には気に入っているものもある。気に入っている? 本当に自己満足以外の何物でもない(ゆえにいつか自家中毒を引き起こす)が、拾い上げてところどころ書き換えて並べた。140文字を超えていればそういうことだ。

 一瞬でも同じイメージが誰かの心の中にうつったとしたら喜ばしいことかもしれない。

『重力の使命』であそぶ―(2)メスクリンの歳差運動

SF

メスクリンの歳差運動

「もちろん、歳差はかなり急速なはずだ。赤道面が異常にふくらんでいるため、たとえこの惑星の質量の大部分が中心付近にあっても、太陽の引力に相当な手がかりを提供するからである。歳差の周期までは計算しなかったが、居住可能半球が二、三千年ごとに交替するため、その住民が高度な文明を建設する妨げになった、と考えたい人がいるなら、それに反対をとなえる気はない。」(『重力の使命』p.314)

「メスクリン創成期」のこの一節. ここがずっと気になっていた. 確かに扁平さは大きなモーメントを働かせる. しかし一方で自転角運動量の大きさはその軸の動きにくさにも寄与する. 「計算しなかった」と言っている以上は仕方ないが二, 三千年というのは妥当な値だろうか?
 これを計算するにあたり, もう一つメスクリンの特異な性質が絡んでくる. 軌道離心率の大きさだ. 軌道が円に近ければ(初歩的な力学の教科書に載っているという意味で)歳差運動の周期はすぐに計算できる. しかしメスクリンの軌道離心率は極めて大きい. 何せ遠日点では近日点より6倍も太陽から遠くなる.
 このことの重要性は地表の住民にとっても大きい. 近日点で夏を迎えるか冬を迎えるかによって太陽から受け取る放射エネルギーは大きく変わる.
 下の図に受け取るエネルギーの一日あたりの総量(カラーマップ)と一日に占める昼の長さの一年間での変化(モノクロ, 光度等の絶対値を考慮していない相対値)を示した. 縦軸は緯度(地理緯度), 横軸はメスクリン年. αは下で定義している座標だが, α=0のとき近日点で南半球が夏を迎えていると考えればよい. 0.5(近日点)で南半球の受け取る熱がきわめて多くなっていることがわかるだろう.

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 実際歳差運動はどの程度の周期で起こるのか. 引き続き一様密度のメスクリンで計算を行う*1.
 扱う問題を改めてきっちり述べると, 重力下の束縛軌道にある剛体が自転軸の方向を変える周期はいくらになるか, ということになる. 剛体の運動方程式を一から求めて数値計算をすることにする.



角速度ベクトル

 『エターナル・フレイム』で習ったとおり, 4次元空間の回転は2つの単位四元数によって表せる. 3次元空間だとそれが1つになる.

 ではまず3次元空間の回転を四元数を使ってやっていく.
ここだけの記法として
・矢印付きは3-ベクトル:実数成分がゼロの四元数. クロス積・ドット積がある.
・太字は四元数.四元数どうしの積がある.
とする.
x(t)で位置を表す. 四元数qによってこれを回転させるときの角速度ベクトルを求める.
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ここで,
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とするとωは3-ベクトルで角速度になる.
なぜなら,
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というように時間微分を表せるため.

 x(t)が剛体を構成する点であるとする. x0は剛体に固定された座標系での位置になる. Vをその領域とすると, 運動エネルギーの総和は,
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という形で表せる.
ここでqを次のようにパラメーターα,β,γで表す.
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4次元球面上を隈なく動くのですべてのqを表せることがわかる.
パラメーターの範囲としては
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をとると一対一になる.(があとの計算でこれを考える必要はとくにない).
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こう書くと見慣れたSO(3)の元であることがわかる.
角速度は
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これは剛体に固定された系での角速度. 恒星系(原点を中心星にとる. 中心星は十分重く不動と仮定)では
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慣性モーメント
 慣性モーメントは次のように求められる. なお惑星質量のほうに下添え字の○(マル)を, 恒星質量には*(アスタリスク)を付けている.
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扁平な回転楕円体として(引き続き)
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をとると,慣性モーメントが求まる. z軸に平行な方向に||、垂直な方向に⊥を付けている.
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剛体回転の運動エネルギーは
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ハミルトニアンがH=K+(α,β,γの時間微分によらない項)という形なら,
共役運動量が求められる.
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(この形を見ると自由回転ではpαとpγが保存することがわかる.)



重力四重極モーメント
 楕円体が外部に作る重力場を改めて考える. 3次元極座標を使うと十分遠方での重力場が求められる(あえてここで一から求めるようなことでもない気はするが確認がてら). ここだけ座標原点を剛体の中心にとる.
ポアソン方程式を解くと, 領域V内での密度分布がμ(r)のとき, 重力ポテンシャルは次のようになる
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Vをz軸回転対称, その内部で密度は一様とすると,
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δはrとr'のなす角.ここで1行目から2行目ではルジャンドル多項式の加法定理を使っている. 回転対称なので1次以上のルジャンドル多項式の項は消える.

 積分を計算する.ルジャンドル多項式は次数lの偶奇と関数の偶奇が一致するため, zについて対称な区間積分するとlが奇数のとき消える.
l=0の項
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l=2の項
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l=2までの近似(つまり四重極までの展開)で重力ポテンシャルは
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となる. 座標を恒星系に戻すと, 楕円体に固定された軸と, 重心から恒星への方向となす角Δに対して 重力エネルギーは
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となる. 点重力源の場合と違って角度に依存する項があるのが重要(この項がないと剛体は自由運動をすることになり自転角運動量は変化しない).

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 重心(Center of Mass)の運動エネルギーも極座標で表す.
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これらから(ラグランジアンを経て)ハミルトニアン
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という形になる. ここでΔは恒星-惑星方向を向くベクトルと惑星固定のz'軸がなす角で
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 さらに近似を使って解析的に扱うこともできるはずだが, ここから数値計算に進んで「実験」してしまう. シンプレクティック数値積分法を使おう.



シンプレクティック数値積分
 ハミルトン形式で, 時間発展とはハミルトニアンを生成子とした無限小変換である. (q,p)→(q~,p~)の座標変換を微小時間τの時間発展のつもりでとる. 次の母関数Wによる正準変換として近似することになる.
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すると座標変換は次のようになる.
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 一般的には陰的で次のステップに進むために連立方程式を数値的に解かねばならないが, (幸運にも)この場合は陽的に計算できる. ちょっと式変形して並べ替えると次のようにチルダ付き変数(次のステップ)の値が決まっていく.
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上から順に計算すれば左辺はチルダなし(前のステップ)座標のみからただちに計算できることに注意. 以下チルダ付き運動量から6つのチルダ付き座標が定まる.

 無次元化を行うために軌道半径, 軌道角運動量, 自転角運動量の基準を与える. 遠日点をt=0にとるのが都合がいい(公転1周分の変化量をとるにあたり遠日点での時間変化率が最も穏やか).
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 Aは軌道長半径, Ω0は平均角速度, ω0は自転角速度を想定している. (上の式を見ればわかる通りpα+pφも保存量になっている. これはz方向角運動量の和)

t=0を遠日点とするため初期値は次のようにとる.
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そして無次元化は次のハット付き変数を使うことで行う.
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さらに時間の基準としてTdayとTyearを導入する. 文字通り1日の長さと1年の長さ.
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 時間ステップτについては, Tyearで割った値hをとる(h=τ/Tyear). γのみがTdayのスケールで変動する(TdayはTyearよりじゅうぶん短いと仮定)が, ほかの座標を求めるうえでは必要がない. グリニッジ天文台が何時なのか知らなくてもいい.
 これによって以下のように計算機に入れられる形で式を得る(次ステップを+の上添え字付きで表した).
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 歳差運動はαの変化である. つまり歳差運動を見るというのはαの変化を見ることに他ならない.
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 上の式を使って時間に従ってαがどう変化するか見る. なお代入する数値に関して, 中心星の質量は0.70太陽質量としている. これははくちょう座61番星aの質量の観測値. βは地軸の傾きで28°. 1日の長さは17.75分, 1年の長さは1800地球日(設定に従っている)
 離心率はややはっきりしていないが, 「メスクリン創成期」の図や, 高熱にさらされるのが1年の4分の1におよぶとの記述により0.71(≒1/√2)を選んだ.

 グラフはαの初期値(遠日点)ごとに, φに対して変量Δαをプロットしたもの. 縦軸の単位に注意. 六十分法で1000倍されている.

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 公転一周当たりの変化量に対して曲線フィッティングを行うときれいに定数+コサインの定数倍に乗る.
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適用された"curve fit"の関数f(α)は
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αは上で見たように公転一周の間にかなり大きく時間変化率が変わるが, このフィッティング関数にしたがって粗視化する*2. すなわち,
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という微分方程式に従うとする. これはすぐに解けて,
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ただし(0:π)区間の外では連続となるように定数部分を変えて接続する.
 これをプロットすると下のようなグラフになる*3.
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 グラフを見ても分かるが, αが一周する(2π変化する)のにかかる時間は
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およそ10万メスクリン年, つまり50万地球年であることがわかる.

 これは地球の歳差運動の周期*4より20倍長い. 少なくともUメスクリンに関して言えば, 近日点で夏を迎える極が二, 三千年であるとの見積もりは短すぎる.
 では, より中心に集中した密度分布だとどうなるだろうか. 角運動量は小さくなる. 潮汐力によるモーメントも小さくなる. 上のハミルトニアンを見ればわかる通り, ハミルトニアンのうち剛体運動部分と重力四重極子ポテンシャルはともに質量にはよらず慣性モーメントだけで書けている*5. おそらく慣性モーメントの縦横比がおおきく変わらない限り歳差運動周期もオーダーは同程度だろう.

軌道離心率
 軌道離心率は歳差運動にどのように影響しているだろうか. 軌道長半径, 質量, 慣性モーメント等は変えずに軌道離心率とそれに伴って変わる近日点距離, 軌道角運動量のみを変化させる. 上と同じフィッティング関数のp, qによってそれぞれの場合が特徴づけられ, 歳差運動周期が求められる.
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 eに対して単調減少で, 離心率がゼロなら周期は約10倍の100万メスクリン年になる. eに関して逆S型の関数(下のグラフはセミログ)になっている様子は分かるが, これにうまくあてはめられる関数は今のところ見つけられてない.

 なおpとqの関係は次のようになっている(横がp,縦がq). 一見すると二次曲線的だがあてはめはうまくいかなかい.
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 解析的な取り扱いが今後の課題として残る. 他の変数に関する依存性なども考慮して帰納的に調べていくことができるだろう.



まとめ
 一様密度の扁平な回転楕円体の, 重力束縛軌道下での歳差運動について調べた. とくに16木星質量の惑星が0.70太陽質量の恒星のまわりを1800地球日, 離心率0.71, 地軸の傾き28°で自転する惑星メスクリンを想定した.
 メスクリンが一様密度ならその歳差運動周期は10万年ほどだろう. 地球基準で言えば*6, 進化スケールの時間で常にその気候への影響にさらされるはずだが, メスクリンの生き物たちはこれにどう適応しているのだろうか.
 文明の興隆スケールの時間ではそう何度も経験していないかもしれない. メスクリン人たちは気候変動にどう対処していくだろうか.
 歳差運動はSFになる. ほかならぬ地球の気候変動にも関わっているという. エキセントリックプラネットでは特にその影響は大きく, 歳差運動周期に適応した生命たちを想像するとおもしろい. ロバート・J・ソウヤー『イリーガルエイリアン』のネタバレになるが, この作品ではアルファ・ケンタウリの三重連星にある架空の惑星の軌道運動の特異な周期が物語に大きく関わってくる. そういうイメージ.

*1:密度分布が中心に集中したときの影響はきちっと計算する必要がある. しかし極端なことを言えばδ関数的に分布していたらそもそも歳差運動は起こらないしそれはもはや剛体ではない. またいずれ.

*2:こんなことをせずともαが2π変化するまで計算を続ければいいように思われるかもしれない. しかし実はこの計算では公転一周を100万分等分しており自分のPCではminオーダーの時間がかかる.これより少ないとなぜか誤差が収束しないのだ. おそらくハミルトニアンの剛体項の特異性(ケプラー運動部分はかなり粗くしても妥当な値を出す)などに由来すると考えられるが原因を特定できていない. ただしこれより刻み幅を小さくしていくとそれに比例して誤差が小さくなっていく様子が観察される. これはすなわち一次解法であることを意味する. 二次以上に改善することもできるがそうすると今度は陰的に解かねばならなくなる.  シンプレクティック数値積分法のよいところは, (陽的)ルンゲ・クッタ法のように誤差が蓄積せずハミルトン力学系を数値解析するにあたり信頼性が高いところだ. 実装が簡単という利点ももちろんあるが一周で打ち切るならややもったいない.

*3:自転の方向は順行, つまり自転と公転の角速度ベクトルのz成分が同じ向きになるとしている. しかしクレメントは逆行している可能性について言及している(作中には反映されていないが). その場合, 単にこのグラフは左右が入れ替わるだけで周期は変わらない. このことは一日の長さの符号を反転することで確かめられる.

*4:地球の歳差運動は太陽より月の影響が大きい

*5:対称コマの重力四重極モーメントが慣性モーメントで表せることをMcCulloughの公式と呼ぶらしい.参照 McCullough's Formula

*6:メスクリンはきわめて冷たい.『重力の使命』でメスクリン人の思考があまりにも人間的すぎる, という指摘があるが, それにもまして重大なのは同じ時間の中で交流できている点かもしれない. メスクリン人もやはり化学ベースで代謝を行っているので, 地球人よりゆっくりした時間を生きていると考えたほうが自然に思われる. 『竜の卵』のチーラと人間の比ほどではないが, コミュニケーションにおいて似たような状況が生まれるだろう.

『重力の使命』であそぶ―(1)メスクリンの表面重力

SF

重力の使命

 はくちょう座61番星C. 黎明期の系外惑星探査の第一人者ピーター・ヴァンデカンプの指導の下カイ・オーゲ・ストランド博士の観測によって「発見」された16木星質量の見えない暗い星.
 1942年に明かされたこの発見がひとつのSF作品のインスピレーションを与えた. ハル・クレメントにより1953年に発表された『重力の使命』"Mission of Gravity"である.
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 (いきなり関係ない話になるがこの表紙画には微妙に不満がある.メスクリン人の脚には吸盤があって「踏ん張る」場面が描かれているのだがこの脚では無理そうだ. このページに挙げられている想像図(ウェイン・ダグラス・バロウ『SF宇宙生物図鑑』がおそらく初出だがこの本は入手困難)のほうがそれっぽいと思う.)
aliens.wikia.com

 「科学的」SF, ハードSFに新しい流れをもたらしたというこの作品の魅力は, 科学的知見を基に緻密に構築された作品世界にある.
 舞台となる星は惑星メスクリン. 実際のデータから16木星質量を与えられたこの星に, 想像を拡げたクレメントは奇抜な特性を加えた. 北極と南極からはさんでぎゅっと押しつぶし, 勢いよく回転させたのだ. その結果この星は赤道直径4.8万マイルに対して両極を結んだ長さ2万マイルときわめて平たく(クレメント曰く「土星顔負けに」――太陽系で最も扁平率の大きい土星でさえ赤道半径は極より1割大きいに過ぎない), 17分45秒で自転軸をひとまわりとすさまじい高速で回転する楕円体になった.
 もちろん奇妙なのは見た目だけではない. それは地表に降り立つと明らかになる.
 赤道での重力は地球の3倍. 地球の5000倍に及ぶ質量は中心方向への強い引力を働かせるが, 高速回転の遠心力によって相殺され差し引き3gを感じることになる. ここでは特製のスーツを着た地球人なら歩ける. しかし極地, つまり自転軸の近くへと進むにつれ状況は変わっていく. 遠心力の助けは弱くなり, 一方で扁平さが引力の中心部へと近づけさせるため重力はどんどん強くなっていく. 極地においてはついに遠心力が消え, そこを支配する重力は地球の665倍にもおよぶ.
 ストーリーは, この驚くべき惑星の調査のため極地へ着陸させた地球人の探査機が離昇できなくなったことをきっかけにして始まる.
 地球人の足では極地へ到達するどころか赤道から離れることすらままならない. そこで希望を託すことになったのがこの星の原住民メスクリン人だ. 高緯度の高重力地帯出身の彼らは, ムカデのようと形容される, 多脚で細長いが頑丈な体に, 物を作り文明を持つための知能を備えている. そんなメスクリン人の航海士バーレナンをはじめとした筏「ブリー号」の乗組員たちと〈空の人〉;地球人との交流と旅が描かれる.


ストランドの星
 ハル・クレメントが物語の舞台として, 間接的な証拠から当時その存在が予想されていたはくちょう座61番星C(Cygni 61C)を選んだのは先に述べたとおり. しかし実はこの星, 現在はその存在が否定されているのである.
 太陽系外の惑星探査には大きな困難が伴う. 理由は単純でその周りを回る恒星と比較するとあまりに小さく自ら光り輝かないため.
 しかし太陽以外の恒星が惑星を持っているかどうかという問題は重要だ. 惑星系形成の理論は比較の対象が揃うことによって理論としての信頼度が増す. 他の星の住民を探すにしてもまずは恒星よりは惑星だろう. なにしろ唯一生命が観測されているのは地球という惑星だけなのだから.
 自然な成り行きとして1940年代頃から実際に系外惑星探しが始まった. しかし今言ったように直接「見る」のは技術的に当時まだまだ難しかった. そこでとられた手法の一つが「アストロメトリ法」である.
 恒星はその周囲を惑星が回っていると, 恒星自身も重心を中心に回る. この揺れの軌道を直接観測し, 見えない天体の存在を割り出すのがアストロメトリ法である. しかし恒星は文字通りほとんど動かない. 観測データの中からさらに地球の公転による視差の影響などを覗いて天体の固有運動を取り出すには非常に高い精度が要求される. 今世紀に入りようやく実際にアストロメトリ法による観測の成功例は挙がってきたが, 当時の技術では困難な方法だった.
 はくちょう座61番星Cはデータの中に現れた幽霊だったのだ.
 否定された学説であることにくわえ, 同じくこの時期にヴァンデカンプにより発見が主張されたものの後に否定されたバーナード星のほうがしぶとく有名だったということもあり, 最近の本ではあまり触れられていないため以上のはくちょう座61番星Cに関する内容はもっぱらWikipediaの以下の記事によった.

61 Cygni - Wikipedia
 
 初期の試みはこうしてすべて失敗に終わり, 系外惑星探査は長い停滞期を迎える.
 これを破ったのが1995年に発見されたペガサス座51番星のホットジュピターであったというのはよく知られている通り. 井田茂『異形の惑星』(NHKブックス,2003年)はたぶんいわゆる必読の書.
 これら1995年以降の発見を受けて書かれたのが小川一水の短編「老ヴォールの惑星」である. 舞台はホットジュピター, 登場するのはその海を泳ぐ知的生命, 描かれる「生き残る」ための物語. いいよね…….
 


「メスクリンは平たすぎる」
 クレメントは「メスクリン創成期」(ハヤカワSF『重力の使命』巻末に付属. 創元SF『重力への挑戦』にはのっていない)の中でメスクリンを生み出す過程について書いている. そしてそれは作者がすべての手を打ち終えたゲームであり, 作品世界について読者がまちがいを見つける楽しみが残されているとも言っている.
 そのゲームを楽しむべく, メスクリンに関してなされた国内の問題提起の中で代表的なもののひとつが「メスクリンは平たすぎる」と題されたレポートである*1. SFマガジン1976年2月号に掲載された記事だ.*2
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 主張の要点は次のようになる. 惑星といっしょに回転する系で重力(全質量が中心に集まっているとする)と遠心力の合力のポテンシャルを考える. 対称軸(北極と南極を結ぶ軸)を通る平面で切ると, その等位面は一般に二字曲線にはならないが, 重力が地表側に働く等位面は惑星を「包む」形になる. この等位面について, 中心からの高さの赤道/極比は1.5が上限値となる. メスクリンではこの比は2.4と大きく上回っている. つまり「平たすぎる」.
 さらにこの限界の比率に近づくと赤道上で等位面はとがった形になる(ちなみにこの中では述べられていないがちょうど臨界のとき計算すると北側南側間の角度は120度)
 図にするとよくわかる. 遠心力と重力の合力のポテンシャルを, 原点に点重力源があるとしてその等高線を描いたものが下の図.
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 単位はその限界の等高線がx=1.5を通るように規格化. これより外側では原点を包む閉曲線にならない.
 ほぼ同じ内容を前野先生が小林泰三「時計の中のレンズ」に対して解説している.
いろもの物理学者のかってに解説「海を見る人」
 これは数学的には全く正しい. しかし質量分布が球対称ではないことによる重力ポテンシャルの変形を無視している点には問題がある.
 クレメント自身もちろんこの問題は認識していて次のように述べている.

 「この惑星はひどく扁平なため、通常、球体にあてはまる法則、つまり表面重力の計算にあたって、すべての質量が中心に集中しているという考え方では、もしこの惑星の密度が均等であるとした場合、近似値すら出てこないのだ。質量が中心に大きく集中していると考えれば、ずいぶん助かる。この小説で使った地球重力の七百倍弱という概算も、それほど的外れではないと思う。しかし、もし異議のある方がいて、それが根拠のある意見なら大いに歓迎だ。(教えられていたときにはもう手遅れで使えなかった別の公式によると、わたしの見積もりは、二倍ほど大きすぎたらしい。……(後略))」

 これより前の箇所では中心核は高密度(ことばとしては出てこないがおそらく縮退していることを想定している. はくちょう座61番星Cは褐色矮星であるとも考えられていた)になっていると述べているため, この仮定の下では妥当な近似ではある.
 異議があるとすれば, 実は一様密度の楕円体上の重力場は正確に計算できるのだ. のみならず回転の遠心力によって表面をポテンシャル等位面にすることも可能. そしてメスクリンと同じ形の天体がもし一様密度なら(この天体はメスクリンそのものではないので「Uメスクリン」とでも呼んでおこう. UはUniformのU)極と赤道の重力加速度は356gと146gになる. その比は実は極半径と赤道半径の逆数の比である. メスクリンの200倍以上に及ぶ比には到底及ばない. 赤道での重力がメスクリンで想定されている3gよりはるかに大きいのだ.
 一様密度というのはざっくり言って中心に全部集中している場合とは逆の極限とみなせる. 仮定が違うのでこのことがメスクリンの性質についての矛盾になるわけではないものの, この事実は一考の価値がある.
 このことについて見ていく.


均一な楕円体の重力場
 導出を飛ばしていきなり書いてしまうと, 密度一様な楕円体の作る重力ポテンシャルに対しては次のような表式が与えられる.
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 ただし積分の下限νは楕円体内部の点で0, 外部の点では次の方程式
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の正根.

 個人的体験の話になるが, 自分はランダウ・リフシッツの『場の古典論』第12章(p.331)に載っていたことでこれを知った. 初めて見たときは何を言っているのか分からなかった. 1変数の積分から一様楕円体の作る重力場が求められる? 式の意味を理解するとじわじわと感動が沸き起こってきた. こいつはヤバい. と同時にランダウは全部読んでおくべきなのだなとも思うなど...
 明らかに極座標ではない何かこの問題に適した座標変換が使われている予感がし,岩波の数学公式集1をめくるとすぐにそれらしきものは見つかった. 楕円体座標と呼ばれる直交曲線座標である. 焦点を共有する楕円体, 1葉双曲面, 2葉双曲面の交点として3次元空間の点を表すのだ.
 詳しい導出は次の文書で読むことができる.

 Wei Caiさんによる "Potential Field of a Uniformly Charged Ellipsoid"
 http://micro.stanford.edu/~caiwei/me340/A_Ellipsoid_Potential.pdf

 『場の古典論』でこれを知る直前, まさにこの問題(ただしz軸回転対称の扁平楕円体)の数値解を3次元極座標で球面調和関数による展開と数値積分を使って解こうとしていた. 長半径より外側の点でのポテンシャルは多重極展開から比較的簡単に級数解が厳密に与えられる. そこから境界条件を決めてそれより内側の点でのポテンシャルを数値的に求めていこうとすると奇妙なことが起こった.短半径より内側では球面調和関数で展開された動径方向成分がl=4以上で0に収束していくのである.対称性からlが奇数の成分は0になるので, この結果はつまり短半径より内側でl=2までの成分しかないことを示唆している.
 変だなあと悩んで半日ほどを過ごしたあとで答えを探すというわけでもなく(試験があったのだ)めくった『場の古典論』でその答えを得られるという幸運に恵まれた. 不思議なこともあるもだ.
 機会があれば(というか特殊関数祭りをやる気になれば)その時の計算も紹介したいと思う. l=0の動径方向成分は割合簡単に厳密に解けるのだが, 変な形の関数と出会えてちょっと嬉しくなれる.
 話を戻そう. 『場の古典論』では注釈に参考文献としてラム『流体力学』が挙げられている. こちらを見てみるとこの結果はディリクレによって与えられたものらしい. 最近日本語訳が出版されていたラプラスの『天体力学論』にも載っている.
 数学的考察はもっと古くまで遡ることができる. 実はニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』、「プリンキピア」には幾何学的考察(といってもニュートン本人は積分法を駆使していたと考えられている)の結果として, 地球の極と赤道との重力の比が数学的に正確な形で与えられている. このことは第3篇命題18以降で議論されている.
 背景として, 当時地球が扁平(oblate)か扁長(oblate)かいずれの回転楕円体形状をとっているのか観測による決着が付いておらず, 科学的に重大な関心を持たれていた, ということがある. ニュートンにとっていっそう重要なことに, 万有引力説と対立していた渦動説(宇宙空間を満たす媒質が押すことで天体が動いているとする説)が扁長説寄りだった一方で万有引力の計算からは扁平な回転楕円体が予想されるため, もし観測によって示されればこちらに有利だったのだ*3.

 さて上の積分は回転楕円体に対しては初等的に求められる.さしあたり扁平な回転楕円体(oblate spheroid)しか使わないためそれを書き下す.
 極半径(c)をaP, 赤道半径(a,b)をaEで表す. ただしaP<aE. 離心率は,
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θeは表式を簡単にするために導入した. 真円に近いときθeは近似的にeに一致する. またθeを使うと扁平率は
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とあらわせる.
 幾何学的意味としては, 対称軸を通る断面図を考えると, 両極で楕円に接する真円へ赤道から引いた接線へ, 中心から下した垂線と中心から赤道へ引いた直線とがなす角と見ることができる. 楕円体に内接する球の表面に対して赤道がどれだけ離れているかを表す指標になっていると考えることができるだろう.

 z軸回転対称なので円筒座標を使ってx^2+y^2=ρ^2とする.次の関数を定義する.
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ここでuはρとzに依存して,
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これらを使うとポテンシャルは
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と書ける. 楕円体の内部ではP,Q,Rがθeだけで表せるため少しきれいに書けて,
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となっている.
 ここでθe→0の極限をとってみると
f:id:shironetsu:20170211164229p:plain:w200
となって半径aの球体内部のポテンシャルに一致することが確かめられる.

 この表式を得られたことの意味は大きい. この楕円体が平衡形状となるときの角速度を求める.
 z軸周りに角速度ωで回転させると, そこに載って動く系では遠心力のポテンシャルが加わり,
f:id:shironetsu:20170211164252p:plain:w300
が実効的なポテンシャルになる("Effective potential"の語はwikipedia的にはケプラー運動の動径方向成分に対するそれになっていた. が, 惑星形状論にはこの意味で使うものがあったのでそれに倣った. もっとも平衡状態(つまり回転系上で速度がゼロ)を議論する限りこれは確かにケプラー運動のそれと同じものである. というのもコリオリ力が働かないため).
境界面;地表は
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と表せるから, 地表面での実効ポテンシャルは
f:id:shironetsu:20170211164337p:plain:w500
 これがρによらないとき境界でのポテンシャルは一定, つまり平衡形状になる.
 そのためには
f:id:shironetsu:20170211164352p:plain:w300
であればよい. 前掲のラメの『流体力学』ではこれはマクローリンの楕円体と呼ばれている.
 球に近いとき,すなわちθe~0では
f:id:shironetsu:20170211164407p:plain:w400
と表せる. ちなみに地球の扁平率, 赤道半径, 赤道重力加速度を入れてみると
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1日の長さとして27.2時間が得られてかなり近い(測定という観点から考えるとむしろ重力加速度, 半径, 自転角速度から扁平率を得るための式だが).

 さて平衡形状をとっているとき, 境界を含む楕円体内部の実効ポテンシャルは
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と書ける.

 重力(加速度)はそのグラディエントをとって,
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地表面上の位置を緯度φでパラメトライズする(経度は無視).
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 これを使うと緯度φでの重力は,
f:id:shironetsu:20170211164546p:plain:w600
 結局,赤道で146g,極で356gという結果を得る.その比はcosθe : 1=1/aE : 1/aP.つまり半径の逆数の比.
 これは地表面が等位面になること, 楕円体内部の等位面がそれと相似な楕円体になることを知っていれば自然な結果である. なぜなら重力の比は等位面の間隔の逆数になるから.
Uメスクリンの赤道重力は本物のメスクリンより50倍も大きくなってしまった. これでは人間はどこにも立てない.
ところで上に引用した通り, 「メスクリン創成期」中でクレメントは極重力の700gは「二倍ほど大きすぎたらしい」と言っている. 「別の公式」というのはこれのことなのだろうか(だとすれば赤道のほうにも触れそうだが).

 ここまでの結果を視覚化しておく.
 遠心力0のときのポテンシャルの等高線.
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 表面がポテンシャル等位面になるような自転角速度をもつとき.
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 青色で示したのは, 赤道の上の重力と遠心力が釣り合う点の等高線. 「平たすぎる」ことはないがかなりきわどいところ. 地表は大丈夫だが大気は逃げ出してしまうかもしれない.

 この勾配をとると各地点での実効的な重力の向きは次の図のようになる.
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右が平衡状態. 地表に対して重力と遠心力は垂直. 左は角速度0. マゼンタが重力で, 青と赤はそれぞれ地表面に対する平行垂直分力. 中緯度で「横向き」重力が大きくなる

 これを見るといろいろ想像が膨らむ. 「バジリスクの卵」ですでに書いたが, 表面が等位面になるための角速度に足りないと極から赤道まで向かうときずっと後ろ向きの重力が働く. 赤道越えが登山になる. すると赤道では大気もごく希薄になるだろうし, 宇宙飛行士のような装備で真空を登山する図が想像できる.
shironetsu.hatenadiary.com
 赤道で生まれて極地域で育ち, 鮭の回遊のように産卵のため再び赤道に帰るまでの過酷な道を往く生物, というのもちょっと想像した.
 歳差運動で居住可能半球が変わるため歳差運動由来の氷河期が迫ると群れを成して登山する生物, なんていうのもいい.

 閑話休題. 表面の重力の様子は分かったが, 天体の形についてもう少し考える.

 密度が与えられたとき, 平衡を保つ角速度には上限がある(思い出してほしいのは, 形と密度が与えられれば平衡角速度は決まること). なぜなら,
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の右辺はθが0からπ/2にわたるとき有限の範囲を動くため.
詳しく調べると極値
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をただひとつ満たすζ=0.3953...によって極大をとることでのみ実現される.
このとき
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この上限値を臨界角速度ωc,と呼んでおき周期をTcとすると,
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 この制限は意外に厳しく, 地球では2時間25分, 太陽系内の惑星中最も低密度の土星では6時間50分を下まわって1自転周期が短くなれないことが導かれる.
Uメスクリンはこれが19.4分になる. メスクリンは17.8分で一回転するので平衡形状としては実現可能だが, 自転がわずかに速すぎる.
 しかし偶然にしてはかなり近く, 質量をわずか1.2倍にすれば臨界角速度を下回る. ただしメスクリンは赤道/極半径比が2.43なので臨界形状よりやや縦長でもう少し質量が要るが, 2桁まではこれと変わらない.

 なお臨界角速度未満では同一の角速度に対して異なる2つの形状をとることができる. 24時間で回転する地球と同じ密度の回転楕円体はこのとき極半径が赤道半径の880分の1になるが, まあほとんど円盤だ.


安定性
 平衡形状の安定性も考えてみる.
 まず自己重力エネルギーUを計算すると
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とちょっとすばらしく簡単な形になる.

 回転の運動エネルギーKとの和をとると全エネルギーは
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 角運動量Lと体積,密度,質量一定の下で全エネルギーを最小化することを考える. 安定性の条件として角運動量と密度が保存されるときにエネルギーが最小になるとするということ.
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 下付き添え字Sは球のときの値を意味する.
 これによりEはθeのみで表せる.
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 意味を考えれば明らかであるが, θeがEの極値を実現するという条件から地表面を実効重力のポテンシャル等位面にするΩが再び与えられる.
 そして極小値は任意の正のKとUの組に対してただひとつ常に存在することが示されるため, 扁平な回転楕円体形状をとる限りは安定であることが結論付けられる.
 ではより自由度の高い擾乱に対してはどうかというと, ある点を超えると不安定になることが知られている.
 『場の古典論』には結果だけ引用する形でこのことが記述されており, 参照元として挙げられているのが『流体力学』であった. しかしこちらもまた結果だけの引用の形であり, さらに注釈には(ヤコービの楕円体;3軸不等の楕円体の平衡形状の永年安定性と並べて)「この結果は, 前の結果と同様, 証明なしに Thomson and Tait, Natural Philosophy(斜体)(2nd ed.), 778"節に述べられている.」(3巻第12章379節)とあった. 重要な結果なので天体物理学の本を探せば詳述されているはずだが, 今のところはここまでしか辿れていない.
 その『流体力学』の中では次のように述べられている.

「マクローリン楕円体は, 楕円体型の撹乱に対して, 離心率eが0.8127より小さいか大きいかに応じて永年安定か不安定である....(中略)...eが上述の限界より下にある限りは, あらゆる変形に対して平衡は永年安定ということがポアンカレによって示された.」

 離心率e=0.8127で極半径/赤道半径比は0.5827, 扁平率は0.4173となる. この安定性についての制限はここまでで最も強い. 密度一定・楕円体形状の条件下では自己重力でまとまる流体の赤道半径が極半径の2倍を超えることはない.

 つまりまあ再度「メスクリンは平たすぎる」と言うことになった……が, ここで論じているのはあくまでUメスクリン. メスクリンそのものを論じるにあたっては内部で高密度になるような密度分布を考慮しなくてはならないが, これはかなりやかっかい. というか今の自分にはできない. しかし固体表面を持つ天体内部の物質状態としてそんな高密度になることは可能だろうか. 考慮すべきことがかなり多くなっていく.

 重力の問題についてはこのあたりにして次の記事で歳差運動について考える.

参考
 mixi上でメスクリンについて色々考察されている記事があった. この記事を書くにあたり参考にさせてもらった.
open.mixi.jp
 重力や「平たすぎる」問題については特に第7回目でテーマにされている.
open.mixi.jp

*1:というか寡聞にしてこれ以外を知らない. ネット上では少し検索すると海外の科学フォーラムでメスクリンの名を出して扁平な惑星に関して議論している場などを見ることができる.

*2:ところでなぜ自分がこの40年も前の号を持っているかというと「ハードSF特集!」の文字が赤々と背に書かれていたから. クラークの「宇宙のランデブー」の連載や堀晃「暗黒星団」, さらにハル・クレメントの「常識はずれ」という短編が載っている. この「常識はずれ」はデネブを周る鉛の融点にも達する灼熱の惑星上で蟹のような生命と宇宙飛行士が出会うという話. 短編集をください.

*3:和田純夫(2009)『プリンキピアを読む』 講談社ブルーバックス 参照. しかしプリンキピアまで遡れてしまうとなるとなんだか無力さを痛感してしまう. もっと早く知っていれば...

バジリスクの卵

SF

 北斜面生態系に属す生物は照期-昏期サイクルに同期したきわめて長周期の生活史を持つ。南極恒久研究所所属の研究員達のおよそ200年にわたる継続的な研究により集められた驚くべき観察記録は、南斜面生態系でも同様の適応が起こっていることを明らかにした(隔絶された2つの半球の生物たちの比較は進化に関する新たな知見をもたらすだろう)。
 南斜面最大の捕食者〈サラマンダー〉もまた、複雑な体制を持つ六肢動物でありながら照期-昏期サイクルに適応している。
 照期が近づくと夏の空に昇る太った太陽に照らされ斜面に苔が芽吹く。一次生産者であるその苔に群がる節櫛虫を捕食する重顎虫を、さらに捕食するのが〈サラマンダー〉だ。斜面に生息する多くの生物がそうであるように、この時期彼らは最も活動的になる。平たい顔の側面に並ぶ4つの目で重顎虫を見定めると先の割れた幅広の尾で跳びかかって食らいつくのだ。最照期の前後に彼らは南極海潮間帯に暮らす祖先たちと大きく変わらない方法で平均して4回世代交代する。ただし各世代に占める覚醒期間の割合は、南極海の生物たちをはるかに下回る。秋から春にかけて斜面生態系丸ごとが休眠状態に入るためだ。
 やがて昏期が近づき夏の太陽が痩せ始めると、獲物の減少に応じて〈サラマンダー〉の活動は鈍く、体も小さくなる。決定的な時期が訪れ主食の重顎虫が卵として地下に潜ると〈サラマンダー〉の耐昏相への移行が始まる。地面を這うための脚は縮小し、泡繭を紡ぐための腺が発達する。そして栄養をため込んだ嚢とともに泡繭の中に閉じこもる。昏期の夏の痩せた太陽では食物連鎖は回せない――南斜面の照期の夏の繁栄をもたらしていた太った太陽は、同じ時期に赤道環を越えた向こう側で照期を迎える北斜面の空に輝いている。照期の個体が経験する休眠よりはるかに長い期間を繭の中でじっと耐え抜く耐昏相はきわめて長命だ。胎生でありながらいわば卵として、長い昏期を乗り越え次の世代へ遺伝子を継ぐことこそが彼らの使命なのだ。
 春が訪れると彼らの役目は終わる。夏の太陽が太り、回復し始めた苔叢に小さな子を産むと痩せた体は破った泡繭の外で動かなくなる。



**

 われわれの知る最初にして唯一の超大扁平率天体(SOO)は、発見当初スーパーアースとして誤って分類されていました。しかしトランジット観測により得られた光度曲線の"底"に大きな変化が見られたことからその特異性が知られることになります。
 トランジット法では主星を公転する惑星の蝕による光度の減少から惑星の性質を調べられます。光度の減少率は惑星が主星を横切って作る"影"の大きさに比例するため、光度曲線の底の深さはおよそ断面積の大きさに比例します。SOOの数回にわたるトランジット記録には顕著な断面積の変化が表れていました。惑星は自己重力で集積し、真球に近い形状をとるため断面積の変化は通常きわめて微小です。SOOではこの変化が公転1回(0.16地球年)あたり0.4%に及んでいました。
 この事実を説明するために提唱されたリング拡大説・大気膨張説には決定的な反証があり、有力な仮説として残されたのは大扁平率説でした。
 惑星は自転により赤道方向にやや膨らんだ回転楕円体形状をとります。そのため影の大きさは光の照射方向に応じて変化します。また、膨らみが主星の重力に手がかりを与えるため、自転軸の変化が引き起こされその周期は扁平率(赤道半径と極半径の差の赤道半径に対する割合)が大きいほど短くなります。これは歳差運動と呼ばる現象であり、こまが高速回転と同時にその軸をゆっくりと変えていくことにたとえられます。
 つまり扁平率が大きいほど光度曲線の底の深さの変化は速くなります。
 この原理に基づき、シミュレーションによる解析が行われました。当時ドップラー分光法により軌道長半径、および軌道離心率は確定した値が得られていたため、光度曲線の形状なども考慮に入れることで天体の形状の絞り込みが可能でした。
 推定された姿は赤道半径が地球の6.1倍、極半径が2.5倍で扁平率0.59というきわめて扁平な回転楕円体でした。平均密度は1.5g/cm^3です。
 一様密度の扁平な回転楕円体は自転の遠心力により平衡状態になることが常に可能です。しかしこの扁平率は安定性に問題があることが知られています。
 自己重力で集積する流体として天体の安定性は調べられます。それに従うと、扁平率が約0.42を超えると微小な擾乱に対して不安定になることが示されます。他の要素を考慮するとより厳しい制限が加わりますが、このもっとも単純な安定性解析による上限値すら推定値は超えていました。
 多くの反論がなされましたが、最終的に次世代宇宙望遠鏡による天体の直接撮像が予想を裏付けました。
 一連の研究は"産業のためのSETI"共同体の主導により行われました。
 SOOと呼ばれるようになったこの天体は、ダイソン球やケンプラーの首飾りに匹敵する天体スケールの工学的産物である可能性が指摘されました。回転楕円体形状を保つ未知素材、ないしは手法を解明できれば莫大な利益をもたらすと考えられます。



***

 彼らは扁平率を愛していた。
 母星の地表にしがみつく柔らかくか弱い存在だったころ、空から彼らを見つめる赤褐色の〈眼〉――衛星である彼らの母星がその周囲を巡るガス巨惑星――は、その表面の白い筋の流れる方向に少し膨らんだ楕円の輪郭を持つことが、少し注意深く観察した者にはすぐに分かった。たぶん彼らの扁平率への執着は部分的にはそこに由来するのだろう。健脚と星の小ささのために宙に浮かぶ球状の世界という考えに馴染むのが早かった彼らの神話の中には、空に浮かぶ扁平な楕円体の世界を祖先たちの生地にとったものがいくつもあった。自分たちは〈眼〉から産み落とされたのだと。彼らの科学はまもなくそのガス巨惑星が生命を宿すためにはいかにも過酷な環境であることを解明したが、それでもなお「母」としてその星は親しみの対象であり続けた。
 工学がやがて彼らを定命と肉体の束縛から解放した。真空を疾駆し星々の歌に耳を澄ませ、それまでそうであり続けたように真理を学ぶことをやめなかった。
 巨大な力を得た彼らは、その行使の対象として宇宙をかき乱すことを慎むべき行為だとみなすようになっていたが、炭化水素から成る脆く湿った存在だったころに精神の核に宿していた衝動を捨て去ってしまうことはできないでいた。すなわち重力に抗することを。程度の差こそあれ、それは持ち上げたものが落ち、積み上げたものが崩れる世界で生まれた知性が共通にもつ文化的性向であった。
 かつて背丈の数十倍にもなる塔を建てた。深い谷に橋を架けた。摩天楼の立ち並ぶ都市を造りあげた。ロケットで天の向こう側へ飛び立った。
 そして扁平率を愛していたことを思い出した。
 それは祖先たちの空想を具現化する事業だった。必要とする技術とエネルギーこそ比べるべくもないほど莫大なものだったが、獰猛な獣を合成した空想上の動物の彫像を作ったり、空に浮かぶ架空の島を絵に描くような芸術的営為の延長に過ぎなかった。
 彼らは扁平な楕円体の星を作ろうとしたのだ。ただし宇宙中を探しても見つからなかったような平たさを。自然には現れえない極端な扁平率を持つ回転楕円体を。
 実際にそれに取り掛かったのは芸術家集団とでも呼ぶべきひとつの共同体だった。宇宙中に広がる同胞たちの中では幾分奇矯な行いに手を染めがちな一派ではあったが、知性を宿していないことを理由に天体を掘削し解体することはしなかった。そもそも安定性の限界を超えて天体サイズの回転楕円体を作るには、この宇宙に存在する物質では強度があまりに不足する。
 彼らは真空から取り出した圏外物質を使うことにした。適切に選定された圏外物質は、通常物質では実現不可能な途方もない強度を持つ固体状態を形成する。それゆえ、表面でポテンシャル等位面をなすよう巨大な角運動量を与えつつ育てられた氷惑星級の圏外物質天体は、液滴よりむしろ岩として集積していた。彼らがその気になれば惑星大の立方体を作ることすら可能だっただろう。もっとも、彼らの美意識に従えば自然からの逸脱は最小限であるべきだった。
 コンパクト天体に匹敵する永続性を約束された楕円体は、彼らの祝福を受けながら回り続けた。
 やがて作り主たちはこの宇宙を去った。彼らは彼らがこの宇宙で生きた証を残そうとはしなかったが、単なる愛着が楕円体を葬ることを思いとどまらせた。
 楕円体は恒星間の冷え冷えとした暗黒を、生まれもった角運動量はそのままに孤独に漂い続けた。

 彼らに落ち度があるとすれば楕円体を銀河間の虚無に産み落とさなかったことだろう。
 重力のいたずらにより、原始惑星系円盤の幼年期をようやく脱したばかりの若い赤色矮星の支配圏が楕円体の通り道に重なった。楕円体は初めて浴びる温かな電磁波の下で恒星の子供たちとの重力多体系のあわただしいワルツに加わった。
 舞踏会は2つの岩石惑星と1つの未熟なガス惑星の退場をもって閉会に至った。
 3つの惑星を弾き飛ばして大離心率ながら安定な軌道を得た平たい取り替え子は、ガス惑星が取り込むことになるはずだった残り少ない元素の雲をまといその地表に沈着させた。

 今や放浪者となった3つの惑星はそれを宿すにはあまりに過酷すぎただろう。この主系列星の下では複雑な有機化学のドラマは進行しないはずだった。一方作り主たちは他の星の運命に介入することはあってはならないと考えていたし、ましてや揺籃をつくるつもりなどなかった。しかし偶然にも楕円体の極の海は自己複製する炭化水素分子にとって好適な環境を提供したのだ。



****

 仮想のガラスドームいっぱいに楕円体が投影される。肉体時代にこだわるこの空間の所有者に合わせて可視光3原色の祖先型――G型星育ちの眼はここM型星の下ではあまりに不便だ――に調整された視覚には、北極の輪郭はほの白くぼんやりと映る。その大気の雲の下、極に丸帽子のように載っているのが北極海だ。そこから赤道へと視線の先の緯度を下げると縁のぼやけがとれ輪郭がはっきりとしてゆく。赤道の上下に帯状に広がるのはほとんど真空の不毛地帯
 遠心力と重力の合力が地表面をポテンシャル等位面にするためにはやや不足する自転角速度は、赤道と両極に「高低差」を生む。極が低く赤道が高い。つまり極から赤道を結ぶ測地線はなだらかに延々と続く斜面になる。ポテンシャルに対して指数的な密度をもつ大気はその峰、赤道には届かない。地表を覆う物質も落ち、剥き出しになるのはこの天体の体積のほとんどを占める光沢のない暗い色の固体だ。

 「ここの太陽が若かったころ、未知種族が製作した楕円体がここに漂流して『捕獲』された、というのが現在最も有力な仮説。同時に重元素に富んだ岩石惑星がはじき出されたと考えればここに本来あるべき金属の乏しさを説明できる」

 軌道上に展開されたプロ―ブ群がひどく大きな多重極成分を持つ重力ポテンシャルの中を駆け回ってせっせと集めたデータは、氷を主成分とするごく薄い地殻直下から中心部に至るまでこの星内部の密度が均一であることを示していた。
 しかしその未知物質は金属ではない。そして系内の外側を回る矮惑星にも金属は多くない。この天体を形作る固体が通常の金属から転換されたものであれば話は変わるが、その線で探ることができるほど研究は進んでいなかった。

 「この天体上に鉱脈はあるのですか?」
 「今のところ未確認。絶対量が少ないうえに、地殻下の活動がないことが影響して鉱物として産出する元素はほとんどない」
 「では……〈深海魚〉の末裔たちが利用できる金属はここにはないのですね」
 
 両極の海に降り注ぐ恒星由来の電磁波は液体状態を保つには不十分だ。近日点で夏――陽光の射し込む角度は90度に近づき極には白夜が訪れる――を迎えるときは温暖だが、冬は圧倒的に不足する。0.71という極めて大きな軌道離心率が影響しているのだ。太陽に最も近づくとき0.9億km、遠ざかるときは5.2億kmと6倍になる。エネルギーフラックス密度はさらにその2乗の逆数の比、近日点に対して遠日点で実に3%にまで減少する。
 加えて歳差運動の周期がおよそ30地球年ときわめて短いため近日点で夏を迎える極は頻繁に交代する。夏の強い光を受けることのできた半球は歳差運動の半周期で入れ替わってしまう。
 しかし海が中まで凍り付くのを妨げる熱源がある。潮汐加熱だ。潮汐力は自転軸を変えるだけではなくわずかに天体をたわませ、発生する熱により液体の海が保たれる。同時に熱量を適度なものにする固体の固さは自転角運動量が持ち去られることを妨げていた。
 奇妙なことに、内部に流体が存在しないにもかかわらず周囲に形成されている磁気圏は、大気の保持に一役買っていた。
 〈深海魚〉たちはその暖かな海の氷冠の下に暮らしていた。真空の壁で隔絶された両極間で大きく形態は異なっているものの、どちらも同程度に複雑な体制だ。両者の間に遺伝的な繋がりが存在することが、太古に両極間の交流があったことを示唆していた。

 「金属なしでは知性の補助具の発達は必ず袋小路に迷い込みます。生体由来の素材では補えません」
 「……介入は慎むべきだ」

 〈深海魚〉の子供たちが知性を獲得するとは限らないだろう。もし「知的生命」が将来出現してもその思考形態は人間とはかけ離れたものになるかもしれない。

 「自らを取り囲む世界を理解するために十分な知性を備えた者が、溢れる好奇心や探求心を満たすための資源の絶望的な不足に気付くとしたら、これほど残酷なことはないでしょう」

(終)



~~~~~~~~~~


 これから上げる記事のためのイントロのようなもの。めちゃめちゃ扁平な惑星、ときたら読んだことのある人にはピンとくるかもしれない。ハル・クレメントの『重力の使命』だ。メスクリンの作る重力場と歳差運動についての考察みたいなものを上げる。上の文中で使った数値はそこで得られた結果を用いて出している。しかし今でも悩んでいるのでしれっと修正するかもしれない(詳しいことは後で書くが、歳差運動の周期、入射エネルギー、表面重力……等を妥当な値にするためにパラメーターを調整した結果やや無茶をしている感が残っている)。
 一応説明してしまうとタイトルは『竜の卵』を意識。バジリスクは雄鶏の卵をヒキガエルが温めることで生まれる、という伝承があるので(「カッコウの卵」だとかわいげがあるなと思ったがカッコウが卵を排除するのは孵化した後だった)。短いのにちょっと仰々しい。

ハダフライ

 2例あれば<故郷なき医師団>が動き出すためには十分な理由になる。
 世界中の医療機関から絶え間なく流れ込む膨大な医学的記録――その大部分は異常性の認められない疾患と外傷である――の中に、10時間の間隔をおいて地球を半周離れた2地点で共通の特徴をもつ変死体が現れたとき、<医師団>の連想マシン"Armchair Doctor"は「敵」の存在を察知した――人類の肉体に対する侵略が始まろうとしている。
 8時間後に日本の千葉県から3例目が報告された時点で調査団の準備は整っていた。本部から派遣された彼らが到着したときには、最近接地の常駐部隊により物理的・情報的封鎖が非常時マニュアルに従い既に完了していた。
 遺体として路上で発見された先の2例と異なり、3例目には発症から死亡に至る一連の過程の目撃者がいた。50代男性の犠牲者の妻である。監察を担当した医師とともにただちに聞き取りが行われた。当該目撃者は調査員の接触時非常に混乱していたが、Glawarcheの安寧/明晰化処置により、発症過程の詳細な口述を得ることに成功した。そこには意識的な回想では見過ごされたであろう最初の兆候が含まれていた。右手の甲に現れた直径1cmの色素斑――しみである。
 患者の自覚症状は軽微な発熱からはじまる。

 「昼食後に『体が熱い』と言っていたので今日はもう布団の上で過ごすようにすすめました。」

 彼女がそう語ったとき時刻は21時、まだ当日の夜であった。
 発熱の2時間後から容態は急激に悪化する。

 「夫はとても息苦しそうでした。あの人自身は気づいていないようでしたが、『ひび割れ』はもう顔にまで薄ら赤い線として浮かび上がってきていました。」

 悲劇的な経験の直後にも関わらず感情をほとんど抑制して彼女が淡々と発症過程を描写できるのは、Glawarche法のためである。異常な光景だが、進行中の事象はそれほどに重大なのだ。
 彼女が語るところによると、「ひび割れ」は皮膚の上に現れる薄桃色の線であり、およそ内径80mmの正六角形の平面充填タイルとして表面を分割してゆく。皮膚のすべてを使い尽くそうとするのだ。実際には体表面は複雑な形状であるため余剰も生じるものの、「タイル」は全身の表面を貪欲に覆ってゆく。分割線は起点から拡がると同時にその線を複雑に入り組ませ、やがてひとつの形状をとる。

 「握っていた左手の肌の質が明らかに変わっていることに気付いたころには夫は私の声に反応しなくなっていました。瞬く間に変化してゆくあの人の姿に茫然としてしまって救急車を呼ぼうという考えすら浮かびませんでした。今思えば何かが手遅れになってしまったことだけは直感していたのでしょう」

 ひび割れは真皮層にまで達する。皮膚の変質は、触感において「硬いゴムのような」「やや乾燥した」と形容された。彼女が混乱の中で見つめたタイル形状の変化が顔面の右側から進行していたことは、起点が右手の甲のしみにあることと符合していた。
 「羽化」は全身の皮膚の変性が完了した段階で一斉に始まる。タイルが縁から剥離し、鱗翅目――蝶のような対の羽がゆらゆらと全身で立ちはじめる。
 
「すがるような気持ちで元のままかもしれない背中の側を見ようとしました。上半身を起こしたとき体は奇妙に軽く感じられました。しかしそこにも蝶は生まれてきていました。」

 皮膚から生まれた蝶の群れは肉体の残りの部分も無駄にはしない。体液を吸い肉をむさぼり骨をかじり腹にその栄養を蓄えると、ふた回り大きく手のひらほどになった羽で生前に犠牲者が身に着けていた服を抜け出し飛び立つ。後に残るのは栄養に乏しく薄いピンクをした人の輪郭をかろうじて留める滓のみであった。

 先の2例と同じだ。乱されていれば人が消えたことすらわからなくなっていただろう。行方不明として処理された犠牲者が陰でもっと多く発生しているかもしれない。
 飛び立った蝶はどこへ行ったか?犠牲者の家の周囲では空高く飛んでゆく薄褐色の蝶の群れが目撃されていた。その点で封鎖は失敗しているのだ。
 さいわい犠牲者の部屋で1個体の未熟なまま活動を停止した蝶が回収された。いびつな形状はタイル充填の不整合による体形成の失敗を示していた。サンプルは研究所へ直ちに送られ、分析にかけられた。残存DNAは犠牲者のものと一致した。
 また上空で展開された<医師団>所有の捕虫ドローンはおよそランダムな方向に飛翔する活動個体の観察と回収に成功、さらに変死体の発見が報告されていない地域の上空では未確認の犠牲者のDNAを持つ蝶が捕獲された。その数は10を上回っていた。
 パンデミックが発生しようとしているかもしれない。
 これをもってまもなく事態は脅威度S7に引き上げられ、<無名>の使用を含む実験計画が承認された。

 "Armchair Doctor"は調査報告を受け取ると、すぐに「しみ」と5日前に観測されたコヒーレント性の高い4つの波長の紫外線との関連性を予見した。

 <医師団>の擁する天文監視班は地上と軌道上に望遠鏡を展開し、常時人類への脅威となる天体的事象の監視を行っている。地球-太陽系L1点に配置された<常昼>衛星は、「大気の窓」をかろうじて通り抜ける比較的透過性の高い紫外波長領域の電磁波にコヒーレント性の高いものを数イベント捉えた。パルスの欠落と不明瞭さが詳細な解析を阻んだが、データの蓄積によりそこにコードされているものがあることが発見された。何かが太陽から送信されている。

 "Armchair Doctor"は生物体への「コード紫外線」の照射実験計画を提案した。同時に大まかに異なる8つの方針を持つ計画が提出され実行されたが、結局のところ「正解」はこれだったのだ。

 照射実験はまずマウス、ウサギ、カニクイザルを含む哺乳類に対して行われたが、通常紫外線の曝露を受けた時と同様の症状が現れたのみだった。
 次に行われた実験では人造ヒト皮膚シートにコード紫外線が照射された。結果は劇的なものだった。条件の整えられたシートの全てに異常な硬化とその周囲に拡がるひび割れが観測された。ひび割れ起点から分離された異常な分子はそれがコード紫外線由来であること示していた。このときコード紫外線は4本が同時に揃って1mm以下の近傍に当てられることが必要だった。4つのコード紫外線はヒトの皮膚に特異的に反応しひび割れを誘発するのだ。
 <無名>への照射実験は皮膚の異なる部位に対して行われたがいずれの条件でも「羽化」が起こった。しみのできる場所には依らないらしい。
 こうしてコード紫外線の潜在的危険性が明らかになった。日光を浴びる全人類の皮膚が「羽化」してしまわないのは専ら4本のコード紫外線の欠落によるものだろう。完全な形で地表に到達する確率は極めて低いのだ。
 同時に進行していた実験から明らかになった事実として、「蝶」をすりつぶした懸濁液の皮膚への注射でも「羽化」が起こることが確認された。コード紫外線により形成される分子が感染性を持つのだ。しかし通常の接触、摂食では「羽化」は起こらなかった。予想される患者の潜伏期間の短さ、致死率の高さ、現時点で確認される蝶の行動パターンを考慮するとヒト-ヒト感染によるパンデミックの危険性は低いと考えられた。

 原因が突き止められてゆけば対策への道が開けてゆく。このとき天文観測班からの凶報として太陽にも「しみ」が増え始めたことが報告されていた。黒点の増加が示す太陽の「敵意」――コード紫外線の増光の兆候。時間はない。直ちに防護作戦を実行せねばならなかった。

 実行に移されたのは<日焼けどめ>作戦だった。毒を以て毒を制す――<医師団>の秘密裡に散布したウィルスは人類を永久的に作り変える。導入された遺伝子はコード紫外線分子の産生を妨げるものだ。
 最初の犠牲者の報告から3か月後に異常な太陽フレアが発生した。それは地表にコード紫外線の雨を降り注がせたが、被害は非異常性のもの――とはいえ損失は甚大であるが――に留まった。<医師団>は人類を肉体の侵略から守ることに成功したのだった。

 謎はいくつも残る。なぜ太陽がヒトを「知っている」のか?蝶はどこへ飛んでゆくのか?
 <日焼けどめ>作戦までに世界で1000の犠牲者が出たが、太陽フレアが上空の蝶の活動を停止させたことが観測から明らかになった。地球重力圏を抜け出した個体はいるだろうか?そうした例は今に至るまで発見されていないが――。
 <医師団>の把握できていない破壊思想団体、敵意を持つ異文明等の存在が仮説として立てられたが、どれも現時点での検証は困難だった。いずれにせよ<故郷なき医師団>の使命は、肉体を狙う脅威から人類を保護することなのだ。

(終)

~~~~~~~~~~

 生きている人のものではなくなった皮膚ってグロテスクだよね、というのが主に言いたいことだがとりわけ強く主張したいことでもない気がしてきました。140字で書いておけばいいような話だが実際半年くらい前に似たようなことを書いていたのを確認した。蝶型の平面充填タイルの形は?紫外線で媒介されるウィルスは可能か?……知らない。(しかし今思えば『エターナル・フレイム』のあれそのものだ。肌から飛び立つ蝶のイメージというのも感染源がある可能性が出てきたぞ。)

 『ブラッド・ミュージック』で人の肌の色の膜が都市を覆うというようなイメージ(だったはず)があったが、あの何とも言えない気持ち悪さというのは、もはや人のものでない皮膚のグロテスクさから来ているのだと感じる。

 書きながら突然思い出した。『ブラッド・ミュージック』を読んだあとに見た夢で、肉ではなく皮なのが薄気味悪さを与えていてよいと講釈を受けるという場面があったのだった。どこかにメモしているはず…。どういう夢なんだか自分でもわからないが強い印象を受けたのは確かだったようだ。

 やや意味が変わるが人の肌をもつ獣というのもおそろしい。スティーヴン・バクスターの『真空ダイヤグラム』中の一篇に、人類の生き残りのために用意した世界にヒト由来の獣やメラニン色素の植物を住まわせるという場面があったが、なんとも趣味が悪くて好きだった。バクスターの作品にしばしばグロテスクさの追求が見られるという話を思い出す。

 人肌のコウモリ、人肌の豚ブタ、人肌のライオン、人肌のイルカ、人肌のタコ、人肌の人肌の人肌の……
 人の目で見つめてくる人肌のカエル。人の歯がのぞく口をぱくぱくさせて集まってくる人肌のコイ。

 人皮装丁本というものがありますね。(ゆゆ式7巻p.80!)人の皮のランプシェードというのも猟奇的事件などの話の中でやたらよく語られる。人皮の太鼓、人皮の帆船、人皮のベッド……

 そもそもグロテスクさというのは「人に近いもの」に感じる性質なのだから進化レベルで当然のことなのかもしれませんね……と言うのはやや浅はかか。