「作業仮説」スポイラー補足解説
「もし私たちが水中にしか棲めないお魚であったならば、どんなに脳味噌が発達していたとしても、このような基礎物理法則に到達することはできなかったであろう。」
(横山順一『電磁気学』(講談社))
1年冬学期の電磁気の授業で使われた教科書に書かれていたマクスウェル方程式についての言葉。兼ねてよりマクスウェル方程式の一般次元化には興味をもって取り組んでいたが、この一文を読んで「水中」(誘電率の高い液体に満たされた空間)に棲む知的生命に電磁気学を「発見」させようという動機が生じた。しかし、半ば「演繹」のような形で方程式を見つけさせようとするとその自然さが必要になる。どうすれば液体の中に棲む知的生命に発見させられるだろう。
グレッグ・イーガン『白熱光』ではロイ達は電磁気学を知らないまま一般相対論に
辿りついて危機を乗り越える。その過程には必然性がある。
同じくイーガン『ディアスポラ』には5+1次元宇宙「マクロ球」U*の天体ポアンカレでのヤドカリとの邂逅というとてもわくわくする章がある。
これらの作品へのリスペクトを込め、7+1次元宇宙(ちょっと多い)の「泥油」という液体の分厚い層の底近くに住む知的生命が数学知識を持て余してマクスウェル方程式と同じものを得てしまうという過程を描くことにした。ちなみに7次元空間はベクトル外積が存在する最大の次元である。
「作業仮説」
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以下ざっくりとした補足的説明。
「作業仮説」補足
1章 種族
〈大綱〉は個体を結ぶネットワーク。多分「中国電話」みたいなことになっている。
クラーク『2010年宇宙の旅』などに知性の発現への火の利用の寄与についての説明がある。しかし液体中が舞台ではそれは使えない。そこで農業という営みに知性の発現を託すことにした。しかしこちらも単に農業に従事するだけでは知能の獲得を望めないことはハキリアリの例などから想像できる。「クリスタルの夜」(『プランク・ダイヴ』所収)でも作物の生育プロセスを複雑なものにしてファイター達の知能の発達を促した箇所がある。
そういうわけで種族の高度な知能を説明するためにわざわざ〈大綱〉という設定を用意した。全体的なネットワークからトップダウン的に個体の知能の発達が進んだという設定……そんなことが可能かどうかはともかく一応これで「説明」したつもり。
2章 世界
7+1次元宇宙であること。巨大なガス惑星か褐色矮星の7+1次元宇宙での類似物の液体層に棲む。
4章 順序
特殊相対論を因果関係が半順序であることから導くこと。
- 呼宇=光(電磁波) s=c
彼らは電磁波を知らない。イルカのような反響定位だけで物を「見て」いる。エコーとかけてこの種族を「泳耕族」と呼ぶ。後半はローレンツ変換のまわりくどい導出。
この章の内容自体は半年近く前に書いたものだがここに組み込んだ。
5章 軌道
測地線の方程式で質点の運動を記述できること。相対論的力学と力の概念。
7章 引力
ざっくり言うと、偶然マクスウェル方程式を見つけてしまったが重力場の方程式と勘違いする話。このSFもどきを書いた最大の目的。
「微分形式のマクスウェル方程式」というのを本でよく見るが、なぜそれでうまく行くのかという点の説明はあまり見ない。一般次元の幾何学という観点から、「一般座標系のマクスウェル方程式」を半ば演繹的にいきなり導く過程で今はその自然さが明らかになったと信じている。*1
これについて考え始めた当初、逆(n-1)乗則は基本原理として採用すべきではないかと考えていたがそれすら結局どちらかというと導かれる側のほうだった。ゆえにクーロン定数よりも真空の誘電率(というか光速の2乗を真空の透磁率で割ったもの)のほうが基本的な定数として先に現れる。歴史的経過によって厄介なことになっている電磁気の単位系の問題もこうして整理するとすっきりはず。
この前の章でもそうだったのだが、人名のついた法則や定理についてはそれを出すことは避けなくてはならなかった。そのためややヘンな用語が出てくる。
- 鉛荷流密度=電流電荷密度
- 発散と流出の積分の定理=ストークスの定理
- 体積双対=ホッジ双対
- 鉛荷=「重力質量」
- 輻場=電場
- 転場=磁場
- χ:真空の透磁率(μ0)
- Φ:電磁場テンソル(F)
- A:電磁ポテンシャル
- σ:「磁荷」
- 流れに沿って不変:リー微分
- 付加的条件δA=0:ローレンツゲージ
- 伝播関数:グリーン関数
ホッジ分解のようなことをしているが不定値計量なのでリーマン幾何の諸定理を使えない。ここが一番不安な箇所。Πが磁荷のある場合のもう一つのポテンシャルということになるがどうだろう……。
注意すべきことは、ローレンツ力として「場の強さの速度による内部積」を採用したため電磁場テンソルの符号が通常の定義と逆になっていること。そのため真空の透磁率の対応物χが正なのに同符号間で引力が発生する。以降の磁場テンソルの符号が普通とは逆になっていておかしいと感じられるかもしれない。電場については通常の定義に合わせたため少しこじれた。
なお、以降の説明でもそうなのだが、2次元の場合については例外的扱いが必要なため述べなかった。
8章 符号
「筆者」が電磁場について(そうとは知らずに)空想するところ。
歴史的にも重力の理論の難しさはエネルギー密度が負値をとるところにあったらしい。
9章 曲率
一般相対論。重力場の方程式を探そうとするのではなく、計量の方程式を探そうとしたら偶然見つかった……という設定。幾何学の言葉で書けず、「古典的」テンソル解析になってしまったのが心残り。
なお、この章の内容は 太田浩一『マクスウェル理論の基礎 相対論と電磁気学』(東大出版)によるところが大きい。
アインシュタイン方程式とマクスウェル方程式の類似についても最後に書いた。物質場との関係を思い切ってイコールで結ぶところが似ている。「磁荷」を諦めることにも宇宙項を捨てることに近いものがある気がした。
「輻転場の理論を接続係数に組み込む」というのはカルツァ-クライン理論のこと。余剰次元の考え方を切り拓いた仮説らしいがよく知らない。
白状するとアインシュタインの方程式はやっと式の意味が理解できた程度で堂々と書けるほどの理解が無い。しかしこの類似点についてはどうしても書きたかった。
線形近似で等方座標系のシュバルツシルト解の近似が出てくるようだがさすがにそこまでは書くのがためらわれた。「鉛荷あり」と回転質量でカー・ニューマン解の近似解も得られる気がするので、もっと理解したらちゃんと計算したい。
10章 方向
僕の好きな「逆3乗以上の中心力下の運動は安定しない」ことの大雑把な説明。『ディアスポラ』でもパオロの説明でオーランドが理解する印象的な場面がある。
これのために泳耕族は太陽の無い世界で生きることになる。ただしこの世界が熱力学的に可能なのかどうかはほとんど検証していない。SF的な恒星上の生物とガス惑星生物の中間みたいな?
これを記した筆者は重力理論の検証を兼ねた宇宙開発を目指している。しかしこの星には鉱物資源が無いため苦労することになるかもしれない。
低次元
この分野の常として(?)独特の現象が現れるのは低次元のほう。
「作業計画」では触れなかった内容だが、以下軽く述べる。
2+1次元について
上でも触れたが2+1次元は例外的な扱いが必要なためわざわざ説明しなかった。グリーン関数が対数になったりしてちょっと厄介。しかし興味深い現象も多く、特に重力理論は最先端で行われているらしい。
・2+1次元電磁気
A・K・デュードニー『プラニバース』(工作舎)で2次元の電磁気について試みられている部分がある。フルルッデの理論を使えば2次元電磁気学も構成できる。特筆すべき現象は、電荷の回転が「右回り」と「左回り」しか無いこと。重い正電荷の周りを軽い負電荷が回るとする。この「原子」は右回りと左回りで磁気単極子であるかのように振舞うことになる…はず。となると原子同士が引き合って化学がより複雑になるかも?
無限に長い電流の周りの磁場が発散してしまうため、3次元のように平行な電流間の力を電流の単位(アンペア)に使えなくなる、というのはちょっとおもしろい。
(15/08/31追記)
ここは嘘だった。2次元では電流のないところで磁場は変化しない。つまり閉じた電流は外部に磁場を作らず、回転する電荷同士は磁気的な相互作用を持たない。このあたりの事情については「燠火」にも書いた。
燠火(解説) - Shironetsu Blog
無限に長い電流Iの作る磁場については少し悩ましいところもあるが、多分右側にμ0I/2、左側に-μ0I/2の均一な磁場ができるのではないかと思う。となるとIA、IBの平行電流は単位長さあたりμ0IAIB/2の力で引き合うことになり(反平行なら反発)、我々の単位系と同じように電磁気の単位を決められることになる。
3+1次元について
よくある誤解にマクスウェル方程式による電磁気の法則は3次元でしか成り立たない、
というものがある。しかしこれはフレミングの法則に騙されているだけなのである。
磁場は本来ベクトル場ではなく反対称2階テンソルである。だが3次元空間ではその双対をとることで”軸性”ベクトルとして扱えるようになる。もちろんこれはありがたいことで、視覚的イメージが簡単になるといった恩恵もあるがこれによってマクスウェル方程式が3次元固有のものに見えてしまう弊害が起こる。
ただ作中では保留した可能性だが「磁荷」(一般には3階反対称テンソル)は3+1次元ではその双対が容易に電流電荷密度と同じになって保存則と結びつく。これは3+1次元固有の性質。
「磁荷あり」マクスウェル方程式はフルルッデが考えた可能性の線でいけるはずなので別の機会にちゃんと扱いたい。
そもそも当初の目的が「磁荷あり」の一般次元のマクスウェル方程式を考えることだったのだが、幾何学的な意味の分かりにくさから保留することにした。ただ、「ダイオン」(磁荷と電荷を持つ仮想上の質点)の受ける力を加えることによって電磁場のエネルギー運動量テンソルはそのままに保てることを考慮すると一般次元でももっと正当化できるかもしれない。
計量
作中では触れなかったが、計量の符号を変えることも比較的容易い。しかし「事象の順序」についての考察が使えなくなるためその点での難しさはある。ただし慣性系の概念を表現するためには時空の計量を導入するのが手っ取り早いので、そういう動機から泳耕族も不定値計量を考える前に考察していたかもしれない。
今年12月に新☆ハヤカワ・SF・シリーズから刊行されるグレッグ・イーガンの『クロックワーク・ロケット』の「Orthogonal三部作」では計量が正定値の(リーマン計量の!)宇宙が描かれるらしい。まだ全く読んでいないが、今から楽しみ(早く原著で読むべきところかもしれないが…)。
リーマン計量であればリーマン幾何学の諸定理を使うことができる。時空多様体の微分形式である電磁場から宇宙の大域的性質、トポロジー的な性質について分かることがあるかも?(そもそも微分形式はそのためのツールとして多様体の本で導入されるらしい)
「作業仮説」でその点に触れなかったのは(最大の理由は単に位相幾何分野を全く勉強していないからだが)不定値計量多様体の大域的性質というのは研究の現場でさえホットな分野らしいため。
先にも述べたがホッジの分解定理は計量の正定値性によっているため不定値計量ではそのまま使えない。ヘルムホルツの分解定理の一般化のようだが、果たして不定値計量で同じようなことをするのがどの程度正当化されるのか……。ここの宇宙(3+1次元宇宙)では電磁場テンソルは閉形式であることが実験的に確かめられているが、フルルッデは電磁場テンソルの分解によって余閉形式成分が入ると磁荷(のようなもの)を導入せねばならず複雑になるから、という理由で電磁場テンソルの類似物が閉形式であると仮定する。ちゃんと多様体の基礎理論を知ったうえでここを何とかしたい。
妄言
ニュートン力学で回転系を扱ったときからずっと「マッハの原理」が気がかりになっている。一般相対論で説明された、という言葉と依然きちんと解明されていないという言葉をどちらも見るが…。ローレンツ力と回転系の慣性力の類似から、捩率的なものが慣性系を決めて銀河の回転曲線問題にも踏み込めるかも!?などと妄想したが勘違いっぽさが酷いためとりあえずやめた。
拙い内容だがご意見ご感想いただけたらとてもありがたい。
- 作者: グレッグ・イーガン,山岸真
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*1:6/15追記 新しい記事でも述べたことだが、これはそのまま「重力場中のマクスウェル方程式」として重力場中の電磁気の法則の記述になっている。 一般次元のマクスウェル方程式と重力のこと - Shironetsu Blog 「最小の書き換えで一般共変性を持たせる」という原理に従って特殊相対論での電磁場テンソルを用いたマクスウェル方程式を変更すると共変微分が出てくることにになるが、その実態は外微分であるため実は必要無い。つまりマクスウェル方程式自体に接続は要らない。この意味を答える力が今の自分には無く悔しい…。ただ、電磁波という伝播現象になると接続が必要になってくるように思われるがどうだろう。あまりいい加減なことを言うと自分でも不安になるからもっと詳しくなってから幾何的意味に突っ込んで考えたい。