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Shironetsu Blog

@shironetsuのブログ

生殖に殺される

 先日、機会があって『ゼンデギ』を再読した。機会というのはその前に読んだ『バーナード嬢曰く。』第3巻で取り上げられていたことだが、それはまあいい。目的は他にもあり、『エターナル・フレイム』を読んで以来気になっていたことを意識しつつ読んでみたくなったのだ。調べるというほどでもない雑な読み方だったが、作中の出来事について確認はできた。
 その「気になっていたこと」というのは、『白熱光』、『ゼンデギ』、「〈直交〉三部作」*1に通じる、親になること/であることへのどこかナイーブな書き口である。

 『白熱光』では「苦痛への憐み」を基礎とする奇妙な(我々にとって)生殖の形態が描かれそれ自体興味深いが、物語上重要なのはスプリンターの危機が迫るにつれ若者や幼生者;子供を守る思いが強まっていく部分だろう。そこでは生存することは個人の欲求を超え種族を守ることにつながっていく*2

 『ゼンデギ』では、妻を失い自らも死に瀕する父親マーティンが、まだ幼い息子ジャヴィードを死後も教え諭すため仮想空間に自分のコピーを残そうとする。

 〈直交〉三部作に登場する種族(呼び名が付いていないので仮に「直交人類」と呼んでおく)は、母親の肉体が4つに分裂して子を出産する。出産と同時に母親の脳は溶け精神は消滅するため、彼らにとって出産は母親の死を意味する。生まれた子供たちは父親が育てることになるが、この父親というのは生まれながらの母親のペア(「双」と呼ばれる)である。分裂する4人の子供は2組の男女の対になっているのだ。つまり雌雄の役割はあるが地球生命の有性生殖におけるそれとは異なったものとなっている*3

 〈直交〉はイーガンらしく物理学と同時にジェンダーの問題を扱ったSFではあるが、生物学的機能の前提が人間とは大きく異なっている点は見逃せない。ここで重要な差異は、〈直交〉では"生殖=死"の図が端的に表れていることだ。直交人類にとって母親の出産は死と同義である。彼らにとってもそれは悲痛なものだが、同時に子を持つことを自然に捉えられるため、環境が整いながら出産を避けることは通常行われない。

 翻ってこちらの宇宙の人類を見るとどうか。出産には命の危険がある程度伴うものの、それ自体が死を意味することはない。むしろ母親には出産後の育児という役割が「与え」られていて、生殖のシステムはむしろ親の生存を前提としている。子が成熟しても自発的な死は起こらず、肉体が限界に達するまで生きながらえるようにできている。
 しかし「限界」とは何か。「なぜ多くの生物に寿命があるのか?」を問題にするのは大げさすぎる(というか自分には全く語れない)が、「それでうまくいくから」というのはあまりに貧弱ではあるものの少なくともひとつの説明ではあるだろう。なにが「うまくいく」のかというと、それは遺伝子の継承ということになる。
 個体の死は遺伝子の喪失ではない。個体の複製;子に乗り換えることで遺伝情報は生き残る。もちろん全く同一ではなく同時に変異が起こり、絶え間なく変動する環境への適応のチャンスも与えている。寿命が進化の必然かどうかは分からないが、子を残した段階で淘汰圧は下がる。遺伝子にとって古い乗り物の整備は眼中にない。子を残した個体の身がどのように朽ちようと、死に際してどう苦痛を味わおうともそれは進化のチェーンから外れたところにある――というのは言い過ぎで、育児の仕組みがあるとそうはならない。また、親子の資源獲得競争の回避などを考慮すると実態はもっと入り組んで複雑だろう。ここは明らかに追究の続いている分野なので検証する覚悟もなく踏み込むのはやめておく。
 ともかく、個体が死んでもうまくいくからこそ個体は死ぬのだ。そして遺伝子による乗り換え戦略を支えるのが生殖である。そう考えると、こちらの宇宙の人類も直交人類と変わるところはない。つまり"生殖=死"は人間と地球のほかの生命にも成り立っている。等式として表すのは強引だろう。ましてやこう表現するのはもっと乱暴かもしれない。しかし言ってみたくもなってしまう。「生殖に殺される。」
 あまりにもうまくいく生殖という複製方法によって人間は先天的には死を避けられない悲劇的な存在であり続けている。もちろんそれを停止したところで寿命がなくなるわけではない。だが生殖とは生物のmortalityを許す仕組みなのだと言うことは(その関係について短絡的すぎることを無視しつつ)できるだろう。

 さてmortalityの語を使ってみた。そのままアルファベットで綴ったのはimmortalityの「不死性」に対していい訳語が辞書に見つからないので…というのはさておき。話が変わるが『ゼンデギ』は腫瘍の発見により自分の死が近い未来に確実にやってくるものだと分かった父親の物語だ。それを悟った彼の望みは、息子が自分と同じように考えるようになるために父親の死後も息子を導く複製を作成することだった。すなわち残虐さや差別意識を排除することを始めとした、道徳を含む考え方の一セットを息子に受け継がせること。
 考え方、ものの見方を受け継がせることはmortalityからくる無力感へのひとつの代償行為として人間がそれを自覚できるようになって以来ずっと続けられてきた方法だろう*4。では現在生きている人間にとって「死が確実に訪れる」ものだと受け入れなくてはならなくなるのはどういう状況か。十分な技術的革新を望めるようになるのを待つには時間が全く不足していることが判明するときだろう。それを踏まえると、この作品で扱われているテーマと出てくる技術の意味も相まって父親マーティンの姿から、今を生きている人々が(「作者自身の」と言いたくなるのだがそれは憶測が過ぎるし不誠実な読み方なので慎む)直面することになるかもしれない悲劇への心構えの形が重なって見えるのだ。ここにこの作品を読むうえでの痛みを感じた。

 話を生物学的なところに戻す。人間を悲劇的な存在にしているのは進化だ。これについては以前「進化の産物であること」でもちょっと書いた。
shironetsu.hatenadiary.com
 言いたいことは、進化とは苦痛の根源であり、「進化によって生命が発生する程度に豊かな物理法則と大きな自由度を持った系の創造は慎まれなくてはならない」という部分的に「クリスタルの夜」に重なる主張だった(加えて「もしこの世界が作られたものならその責任を持つ者は裁かれなくてはならない」というやや飛躍した論理を混ぜている)。
 進化は圧倒的に「正しくない」。劣ったものを排除し続ける優生学の究極の実行者にして大虐殺者だ。そして人間を含む生命は進化の産物であり、その「自然な姿」は進化に従ったつくりになっている。「動物」を進化に従順な存在として「人間」との間に曖昧な境界線を引こう。定義が不安定すぎて何も意味をなさないかもしれない。しかし、個体の死に繋がる営みのすべてが、動物側に取り込まれる局面になっているという感覚は拭いがたいのだ。

 最後に。イーガンの作品を引きつつ、それを読み解いたものではないことを注意しておきます。ゼンデギを再読しつつその緻密さ慎重さに圧倒されたのでイーガンの作品はこんなに軽薄ではないぞ!と……。

*1:「〈直交〉三部作」の第3巻"The Arrows of Time"の邦訳は未刊行。そして未読なので三部作と言いつつここで触れているのは『クロックワーク・ロケット』と『エターナル・フレイム』まで。

*2:書いたあとで『白熱光』は本筋との関りが緩いことに気づいた。

*3:ここで述べることにはあまり関係ないが付け加えておくと、遺伝的多様性の問題については『エターナル・フレイム』でその端緒がつかまれている。

*4:短編集『TAP』に収録されている「森の中」をふと思い出す。「自分であること」は「自分と同じように考えている状態が実現していること」だと信じる老人がある若者にそれを理解させようとする話、というと大雑把だがそう遠くない……はず。「ゼンデギ」が長期記憶にアイデンティティーを求めているように描かれているのと対照的な気がする。