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「トライアリティー」(八元数SF)

f:id:shironetsu:20171119092902p:plain:w200
 探索は目録に掲載される限りの結晶試料に対して今も続けられている。網羅的な測定を続ける忍耐、有望な兆候を見逃さない観察眼、そして発見には必須の幸運により見出された最初のいくつかの4準位コヒーレント光源は、可視域を大きく外れた遠紫外線――パルス速度はきわめて大きいが時間周波数は輝素が追従できる程にじゅうぶん長い――を理想的な実験素材として物理学者たちに提供することととなった。
 デルフィーナたち実験グループの設計した"光学固体"の実験系はその緩慢な波面速度を利用したものだった。独立な7方向から照射されるコヒーレント光が周期的に変化する力場の7次元格子を虚空に描く。力線の山と谷は波面とともに移動し、トラップされた輝素をゆっくりと運ぶ。照射強度を変えると運ばれる輝素のエネルギー準位は離散化させられる。
 ありふれた固体はあまりにも多数の輝素が複雑に相互作用する系であり、生まれたばかりの波動力学でその性質を調べるには未解明なことが多すぎる。一方で少数輝素を観察する技術は依然限定的なものだ。調整可能なポテンシャル中の輝素の振る舞いを調べられる光学固体は、そんな物理学者たちにとって波動の力学を検証し新奇な現象を探すにはうってつけの系だと言えた。
 構想を現実のものとするために付き物のいくつもの障害を技術者たちとともにひとつずつ解決し、ようやく作動しはじめた光学固体から解析にたえる測定結果が得られるようになったのがつい最近のことだった。
 「この方針で〈八の法則〉を説明しようという試みはあまり有望には思えない」
 デルフィーノはいたずらに複雑さを増す計算に苦言を呈した。
 7つの方向全てに横波を除去する結晶をあてて縦波のみのコヒーレント光を照射したとき、スペクトルは誤差の範囲で輝素波方程式から予測される理論値と一致した。ところが横波の偏極成分を加えると状況が変化する。理論値のまわりで偏極成分の強度におよそ比例してスペクトルが分裂するのだ。照射角度、偏極方向、変数を様々に変えながら測定が行われた。分裂の本数は最大で8。それより多くが現れることはなかった。それが〈八の法則〉――物理学者たちの前に、説明を待つ未知の現象がもたらされたのだ。
 「そうね。行き当たりばったりにモデルに手を加えるよりも他に検討すべきことがあるはずだわ」とデルフィーナ。
 ふたりはここ数日、断熱近似で無視される微妙な準安定状態間の遷移がスペクトルの分裂をもたらすというモデルを定式化しようと計算に取り組んでいたが、8という数字をもっともらしく説明するにはアドホックな調整が多すぎるように感じられた。
「たぶん既存の輝素の波動方程式が記述していない何かを見つけたんだ」
「内部構造や自己力の影響ということ?」
「あるいは回転物理学の効果とか」
 輝素波方程式の最大の弱点のひとつは低速度での極限でしか検証されていない点にあった。回転物理学を考慮に入れた輝素波方程式はいくつか考案されていたが、どれも実験値との整合性は良いとは言えなかった。
「もしかすると偏極のようなものかも」
 その表現が適切なものだと信じるに足る証拠は無かったが、自分で発したそれはデルフィーナにとって不思議と自然に感じられた。8つの分裂、8つの偏極。
「偏極とは」
デルフィーノは自分に思いださせるように語った。
「波がその進行方向以外に伴う自由度から生じる成分だ。そしてわれわれはそれを持つ例を厳密には1種類しか知らない。すなわち6自由度の横波成分と1自由度の縦波成分を持つ光だ」
 光の場のベクトルは波動方程式レベルでは次元の数に応じて8つの自由度を持つ。しかし光源強度への作用はその外微分を通してしか現れない。そのため物理的意味を持たないとして自由度は1つ消去される。輝素に現れた8つの自由度は、捨て去られるべき1つの自由度が亡霊のように蘇っているかのようにも思われた。
「輝素波の本質が光と同じようなベクトルだというアイデアを表現する方法はあるかしら?その間にある厳然たる差異を克服して?それよりはむしろ、8成分はベクトルの方向に応じたものではないと考えるほうが自然よ、きっと」
「8つの方向を持つもの。ただし実空間上にではなく」
「8成分だがベクトルでないものを探しているのか?つまり物理学者いうところのベクトルだよ」
 そばの作業卓で自分の仕事に没頭してふたりの議論を横から聞き流していたデルフィーンがにわかに注意を引かれたかのように議論に加わってきた。
 ベクトルとは線形空間の元の言い換えにすぎない。しかし物理学者はその術語にいくぶん特殊な意味を与えていた。すなわち8次元空間に住む"幾何学的実体"――座標変換に応じて特定の方法で成分が変換されるもの。
八元数について知っていることは?」
 ふたりに問うたデルフィーンは数瞬の間を知識の欠如と読み取って説明を始めた。
「4つの変数の2乗和の積はその変数たちの2次形式4つの2乗和で表せる。数学者たちはこれを利用してあらゆる整数が4つの整数の2乗和で表せることを証明したが今はどうでもいい。重要なのはこれが四元数を成り立たせているということだ。積が零になる零でない元が存在しない、絶対値の積が積の絶対値になる、結合性を持つ。複素数の良い性質を引き継いでいるものの成分が増えた代償として可換性が失われる。当然興味はより上に移る。2乗和の積が2次形式の2乗和で表せるのはいくつの変数が関わるときか?数学者たちはそれが1,2,4,8に限られることを示した。2の3乗までの冪だ。8で打ち止めになるんだよ。それ以上はない。そして4が四元数を生むように8は八元数を生む。これも四元数の性質をいくつか引き継ぐが結合性を失う」
 デルフィーンはついさっきまで別の計算を行っていた紙になにか書きながら、小休止を挟む間もなく説明を継続した。

\begin{gather}
e_i^2=\left\{\begin{array}{cl}
1&i=0\\-1&i=1,2,3,4,5,6,7\\
\end{array}\right.\\
e_ie_j=-e_je_i=e_k,\ \ \ e_je_k=-e_ke_j=e_i,\ \ \ e_ke_i=-e_ie_k=e_j\\
(ijk)=(123),\ (145),\ (167),\ (257),\ (264),\ (347),\ (356)\\
x=x_0e_0+x_1e_1+x_2e_2+x_3e_3+x_4e_4+x_5e_5+x_6e_6+x_7e_7\\
\mbox{共役}\ \ \ \bar{x}=x_0e_0-x_1e_1-x_2e_2-x_3e_3-x_4e_4-x_5e_5-x_6e_6-x_7e_7\\
\overline{xy}=\bar{y}\bar{x}\\
\mbox{絶対値}\ \ \ |x|^2=x\bar{x}\\
\mbox{逆元}\ \ \ x^{-1}=\frac{\bar{x}}{|x|^2}\ (x\neq 0)\\
\mbox{内積}\ \ \ (x,y)=\frac{1}{2}(|x+y|^2-|x|^2-|y|^2)=\frac{1}{2}(x\bar{y}+y\bar{x})=\frac{1}{2}(\bar{x}y+\bar{y}x)\\
\end{gather}

「実部の基底、つまり1には番号0をあてる。虚部の基底は7つだ。こちらには1から7まで番号を振る。2乗するとマイナス1になるのはすべて同じだ。そのうち部分的に虚四元数をなす三つ組が7つある。123、145、167、257、264、347、356だ。1番と2番を順にかけると3番、逆順でかけるとマイナス3番。2番と3番を順にかけると1番、以下同様。積はこれだけで決まる。三つ組の選び方には任意性がある。たとえば124、137、156、235、267、346、457をとってもいい。しかしこれは基底のとりかえに過ぎない。最小の例外群の離散部分群だよ。まあそれはいい」
 デルフィーナは追いつくためにも説明に割りこんだ。
「1番かける4番かける7番を考える。これはさっきの三つ組をなさない。1番と4番の積をはじめにとると5番かける7番で2番。今度は順序を変えて4番と7番の積をはじめにとると1番かける3番でマイナス2番。結果は一致しない」
「慣れないな」
 デルフィーノは自分でも確かめながら感想を述べた。
「慣れてくれ」とデルフィーン。
「ただし乗算の有用な法則がすべて消え去ったわけではない」
 そう言うといくつかの関係式を書き加えた。

\begin{gather}
(xx)y=x(xy),\ (xy)x=x(yx),\ (yx)x=y(xx)\\
(x\bar{x})y=x(\bar{x}y),\ (xy)\bar{x}=x(y\bar{x}),\ (yx)\bar{x}=y(x\bar{x})
\end{gather}

「部分的に成り立つ結合法則だ。これは三つのより重要な法則から得られる」

\begin{align}
x(yz)&=(xyx)(x^{-1}z)\\
(yz)x&=(yx^{-1})(xzx)\\
x(yz)x&=(xy)(zx)
\end{align}

「弱められた結合性だ。この関係式が満たされる集合はループと呼ばれる代数構造の特殊な例になっている」
 デルフィーナはこの等式を示すことは手に負えないと感じたが、二、三の例で成り立つことを確かめた。
「やっと幾何学の話に入れる。原点を固定する任意の回転が偶数回の反射の合成で表せることはいいか?」
「任意の回転は基底をとりかえることでいくつかの2-平面上の独立な回転とみなせる。2-平面の場合には回転をなす2回の反射を容易に構成できる。それをすべての2-平面に対して順に行えばいい」
 デルフィーノは幾何学の知識を呼び起こしながら語った。
「その通り。そして八元数の場合には対称平面の法線を定めれば八元数の演算だけで反射を表せる」

\begin{align}
M\lbrack u\rbrack x:=x-2(u,x)u=-u\bar{x}u\ \ \ (|u|=1)
\end{align}

「これを2つ作用させると回転になる」

\begin{align}
M\lbrack v\rbrack M\lbrack u\rbrack x=v(\bar{u}x\bar{u})v
\end{align}

「任意の回転を表すには足りないが本質は変わらない。いまこの写像が作用している八元数を"ベクトル"としよう。これが2つの八元数の積なら?」

\begin{align}
M\lbrack v\rbrack M\lbrack u\rbrack(yz)&=v(\bar{u}(yz)\bar{u})v\\
&=(v(\bar{u}y) )( (z\bar{u})v)
\end{align}

「ループの法則だ。片側作用も絶対値を変えないことはすぐに同意できるだろう。回転になることの証明はやや込み入る」

\begin{gather}
L\lbrack u,v\rbrack x:=v(\bar{u}x),\ \ \ R\lbrack u,v\rbrack x:=\bar{v}(ux)\\
M\lbrack v\rbrack M\lbrack u\rbrack(x\bar{y})=(L\lbrack u,v\rbrack x)\overline{(R\lbrack u,v\rbrack y)}
\end{gather}

「ある回転がある。それに対して異なる回転のふたつ組が存在する。実は対応関係は元の回転とふたつ組について1対2だ。ふたつ組の両方の符号を反転させても同じ回転になる。数学者たちはこれを8-回転の三対性(トライアリティー)と呼ぶ」
「8成分を持つがベクトルでないもの。2つの片側作用それぞれで変換する八元数がそうなるのね」
 デルフィーナはこの小講義が目的地に辿り着いたことに気付いた。
「それが私の教えたかったことだ。あとはお好きなように」
 デルフィーンはそれだけ言うと満足したように自分の仕事に戻っていった。
「確かに回転だ。ディターミナントが正になる」
 はやくも乗算法則を習得していたデルフィーノは両側作用と片側作用を実際に計算してみていた。

\begin{gather}
u=\frac{e_0-e_1}{\sqrt{2}},\ v=e_2,\ {\bf{e}}=(e_0,e_1,e_2,e_3,e_4,e_5,e_6,e_7)^T\\
M\lbrack v\rbrack M\lbrack u\rbrack{\bf{e}}=
\begin{pmatrix}
0&1&0&0&0&0&0&0\\
1&0&0&0&0&0&0&0\\
0&0&-1&0&0&0&0&0\\
0&0&0&1&0&0&0&0\\
0&0&0&0&1&0&0&0\\
0&0&0&0&0&1&0&0\\
0&0&0&0&0&0&1&0\\
0&0&0&0&0&0&0&1
\end{pmatrix}
\bf{e}\\
L\lbrack u,v\rbrack{\bf{e}}=
\frac{1}{\sqrt{2}}
\begin{pmatrix}
0&0&1&-1&0&0&0&0\\0&0&-1&-1&0&0&0&0\\-1&1&0&0&0&0&0&0\\1&1&0&0&0&0&0&0\\
0&0&0&0&0&0&-1&1\\0&0&0&0&0&0&1&1\\0&0&0&0&1&-1&0&0\\0&0&0&0&-1&-1&0&0
\end{pmatrix}
{\bf e}\ ,\ \ 
R\lbrack u,v\rbrack{\bf{e}}=
\frac{1}{\sqrt{2}}
\begin{pmatrix}
0&0&-1&-1&0&0&0&0\\
0&0&-1&1&0&0&0&0\\
1&1&0&0&0&0&0&0\\
1&-1&0&0&0&0&0&0\\
0&0&0&0&0&0&1&1\\
0&0&0&0&0&0&1&-1\\
0&0&0&0&-1&-1&0&0\\
0&0&0&0&-1&1&0&0
\end{pmatrix}
\bf{e}\
\end{gather}

「これが8つの偏極の正体なのか?つまり片側作用で変換する八元数ぶんの自由度が?」
 8成分だがベクトルではない量――探そうとしていたものがこんなにも早く与えられたことに驚きながらもデルフィーノは何かを掴みかけている感覚を確かなものとしたい思いに焦れていた。
「そう考えるにはまだ早いわ。物理学の問題として語る以上、片側作用で変換するふたつの八元数――そうね、それぞれ左方ベクトル(レフトル)、右方ベクトル(ライトル)と呼びましょう――で波を記述する方程式を得る必要がある」

\begin{gather}
\partial=\partial_\mu e_\mu\\
(\partial\bar{\partial}+m^2)\psi=0
\end{gather}

「8-空間それぞれの方向に対する1次の微分演算子はベクトルよ。共役との積をとって質量の2乗を加えると波動の演算子になる」
「ここには8成分になるべき理由はない」
 光の場と1成分輝素波は波動方程式としては同じふるまいをするがその成り立ちは異なる。自由波の波動方程式レベルでは光の場の8成分は独立だ。しかし、それが従う基礎方程式は8成分が互いに絡み合うものになっている。
「2次の波動の演算子を作用させるのではなく1次の演算子を作用させるにとどめるなら……」
 デルフィーノは天啓を得たようだった。
「ベクトルかけるライトルはレフトルだ」

            変換則
\begin{align}
\mbox{ベクトル}&\ \ \ \partial\mapsto \partial'=M\lbrack v \rbrack M\lbrack u \rbrack\partial=v(\bar{u}\partial\bar{u})v\\
\mbox{レフトル}&\ \ \ \psi_L\mapsto\psi'_L=L\lbrack u, v \rbrack\psi_L=v(\bar{u}\psi_L)\\
\mbox{ライトル}&\ \ \ \psi_R\mapsto\psi'_R=R\lbrack u,v \rbrack\psi_R=\bar{v}(u\psi_R)\\
\mbox{ベクトル×ライトル}&\ \ \ 
\partial\psi_R\mapsto\partial'\psi'_R=(v(\bar{u}\partial\bar{u})v)(\bar{v}(u\psi_R) )=
v(\bar{u}(\partial\psi_R) )\\=
\mbox{レフトル}&\hspace{6.6em}=L\lbrack u,v \rbrack(\partial\psi_R)\\
\mbox{共役ベクトル×レフトル}&\ \ \
\bar{\partial}\psi_L\mapsto\bar{\partial'}\psi'_L=(\bar{v}(u\bar{\partial}u)\bar{v})(v(\bar{u}\psi_L) )=
\bar{v}(u(\bar{\partial}\psi_L) )\\=
\mbox{ライトル}&\hspace{6.6em}=R\lbrack u,v \rbrack(\bar{\partial}\psi_L)\\
\end{align}

「同様に共役ベクトル×レフトルはライトル。ループの法則だ。片側作用と両側作用を縮約できる」
「これでライトルとレフトルが絡む微分方程式を書けるわ!」

\begin{align}
\partial\psi_R=\hspace{-.6em}?\hspace{.3em}m\psi_L\ ,\ \ -\bar{\partial}\psi_L=\hspace{-.6em}?\hspace{.3em}m\psi_R
\end{align}

 デルフィーナが書いた連立方程式は、片側ベクトル特有の幾何学的性質によって波動方程式が1次の微分方程式2本に分離されていた。
「輝素の偏極の8自由度は、その8-運動量に応じて状態が動く8つの複素平面に対応するとしましょう。レフトルの8成分とライトルの8成分――合計16成分を8つの複素数とみなすことはできるかしら?」
 それはほとんど修辞的な疑問として先細りになった。

\begin{gather}
x=x_0e_0+x_1e_1+x_2e_2+x_3e_3+x_4e_4+x_5e_5+x_6e_6+x_7e_7\\
\hspace{3em}=(x_0+x_1e_1)+e_2(x_2-x_3e_1)+e_4(x_4-x_5e_1)+e_6(x_6-x_7e_1)\\
xe_1=(-x_1+x_0e_1)+e_2(x_3+x_2e_1)+e_4(x_5+x_4e_1)+e_6(x_7+x_6e_1)\\
(xe_1)e_1=-x
\end{gather}

八元数の全体を4つの複素数の直和と見ることは可能だ。しかし八元数の演算だけで1階微分に応じた複素平面の4分の1回転は表せない。非結合性が邪魔をする」

\begin{gather}
(\partial\psi_R)e_1=\hspace{-.6em}?\hspace{.3em}m\psi_L\ ,\ \ 
(\bar{\partial}\psi_L)e_1=\hspace{-.6em}?\hspace{.3em}m\psi_R\\
\Rightarrow m^2\psi_R=(\bar{\partial}(\partial\psi_R)e_1)e_1\neq -\bar{\partial}\partial\psi_R\\
L\lbrack u,v \rbrack(\psi_Le_1)\neq (L\lbrack u,v \rbrack\psi_L)e_1
\end{gather}

「そもそもこれでは幾何学が壊れている」
 実現したい理念を確かめるためだけにデルフィーノは渋々"二重に"誤っている式を書いてみた。
「複素化すればいい。代数法則はそのまま受け継がれる」
 既に議論から離脱していたと思われたデルフィーンが視線をこちらに向けることさえなく助言を加えた。
「なるほど。"複素"八元数か。だがそれは自由度を倍加することにならないか?ふたつの複素八元数。16の複素平面
「減るよりはいいわ。光の場の回転が解くことのできない重なりがまだ残っているのかも。そういった問題に向き合うのはとにかく解を求めてからよ」

\begin{align}
\sqrt{-1}\partial\psi_R=m\psi_L\ ,\ \ 
\sqrt{-1}\bar{\partial}\psi_L=m\psi_R
\end{align}

「しかしこれなら光の場も今までとほとんど同じ方法で入れられるな」

\begin{gather}
(\sqrt{-1}\partial-qA)\psi_R=m\psi_L\ ,\ \ 
(\sqrt{-1}\bar{\partial}-q\bar{A})\psi_L=m\psi_R\\
A=A_\mu e_\mu
\end{gather}

 複素1成分輝素波方程式に光の場を入れるとき、波数-運動量にあたる演算子に光の持つベクトルを単にたす方法が採られ、多くの実験がその処方の正しさを裏付けていた。実際、光学固体スペクトルの測定結果は比較的微細な8分裂を除いてほとんどそれで説明することができる。"実"八元数波動方程式の困難は、その処方を実行できない点にもあった。しかし複素八元数ならこれまでと同様に、それどころか回転物理学の幾何学をより正しく反映した形で書くことができる。
 デルフィーノはしばらくの計算の後、扱いやすいマトリックスの形式に書き直した。

\begin{gather}
(\sqrt{-1}\partial_\mu-qA_\nu)(\varsigma^\mu)_{\nu\rho}\psi_{R\rho}=m\psi_{L\rho}\ ,\ \ 
(\sqrt{-1}\partial_\mu-qA_\nu)(\bar{\varsigma}^\mu)_{\nu\rho}\psi_{L\rho}=m\psi_{R\rho}\\
e_\mu e_\nu=(\varsigma^\mu)_{\nu\rho}e_\rho\\
\bar\varsigma^\mu=
\left\{\begin{array}{cl}\varsigma^0&\mu=0\\-\varsigma^\mu&\mu=1,2,3,4,5,6,7
\end{array}\right.\\
\varsigma^0={\bf 1}_2\otimes{\bf 1}_2\otimes{\bf 1}_2\ ,\ \ 
\varsigma^1={\bf 1}_2\otimes{\bf 1}_2\otimes\varepsilon\ ,\ \ 
\varsigma^2=\sigma_3\otimes\varepsilon\otimes\sigma_3\ ,\ \ 
\varsigma^3={\bf 1}_2\otimes\varepsilon\otimes\sigma_1\\
\varsigma^4=\varepsilon\otimes{\bf 1}_2\otimes\sigma_3\ ,\ \ 
\varsigma^5=\varepsilon\otimes\sigma_3\otimes\sigma_1\ ,\ \ 
\varsigma^6=\sigma_1\otimes\varepsilon\otimes\sigma_3\ ,\ \ 
\varsigma^7=\varepsilon\otimes\sigma_1\otimes\sigma_1\\
\left(\sigma_1=\begin{pmatrix}0&1\\1&0\end{pmatrix}\ ,\ \ 
\varepsilon=\begin{pmatrix}0&1\\-1&0\end{pmatrix}\ ,\ \ 
\sigma_3=\begin{pmatrix}1&0\\0&-1\end{pmatrix}\right)\\
\end{gather}

八元数のままでは計算には不向きだ。何にせよ八元数の構造を表現できるなら同じこと」

\begin{gather}
(\sqrt{-1}\partial_\mu\gamma^\mu-qA_\mu\gamma^\mu-m)\psi=0\\
\psi=\left(\!\begin{array}{c}\psi_L\\ \psi_R\end{array}\!\right)\\
\gamma^\mu=\begin{pmatrix}0&\varsigma^\mu\\ \bar{\varsigma}^\mu&0\end{pmatrix}=
\left\{\begin{array}{cl}\sigma_1\otimes\varsigma^0 & \mu=0\\
\varepsilon\otimes\varsigma^\mu&\mu=1,2,3,4,5,6,7
\end{array}\right.
\end{gather}

 マトリックス形式で書いてさえしまえばあとは慣れたものだった。鮮やかな手つきでデルフィーノは光の場がないときの平面波解を求めてみせた。
「16の自由度のうち半分は正エネルギー、半分は絶対値が同じで逆符号の負エネルギーの波になる」
「正負のエネルギーが同時に現れるのね。捨て去ってしまうわけにはいかない。正しい解釈は後に回しましょう。でも私たちのよく知った正エネルギーのほうについてならちょうど8成分。光の偏極とは全く異なる由来の8成分。縦波でも横波でもない。これが8つの偏極の正体だという主張をもっと確からしいものにするには……」
「光の場によるエネルギー準位の分裂を再現すればいい」
「その通り」
 まもなくふたりが発見したのは、運動量の空間成分がじゅうぶん小さいという近似の下で主要項は複素1成分波動方程式にほとんど一致することだった。この範囲では正エネルギーの複素8成分は独立している。しかしわずかに現れた差異はそれらを混ぜる働きを持っているだけではなく非常に示唆的な形をしていた。
「光の場の回転成分がエネルギーに影響するんだわ。これは実験結果を説明するにはとても……とても魅力的ね」
 ふたりともが幾何学の導いたこの結果に茫然としていた。
定量的にも正しさは裏付けられるだろうか。測定結果を集めて理論値と比較してみよう。近似の精度をもっと高めることも必要だ。それができればより微妙な効果を調べるための実験系を設計できるかもしれない」
 疲れを感じる機能は壊れていた。こんなことはそう何度も経験できるものではない。手元にあるだけの測定データとの比較検証、新しい実験計画、同僚たちに公表するための資料作成……全てに頭を巡らせながら自分たちのなすべきことに没頭していった。
 デルフィーンは自分のささやかな助言が役に立ったらしいことに満足すると同時に、純粋な数学的対象が物理を説明したかもしれない現場に立ち会ったことに心地よい驚きを覚えていた。次に物理に現れるのはどんな数学だろうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

解説
 グレッグ・イーガン『エターナル・フレイム』第33章へのオマージュ。カルラとパトリジアとロモロが四元数を通じてスピンを発見するところ。ここほんとラブ。ただし舞台を8+0次元宇宙に移している。その結果四元数ではなく八元数が役に立つようになり……。
 光学固体に関して冒頭に自分のものであるように書いているのはなかなか悪質だが、消化しきれていなかった部分を噛み砕いてみようという試みの反映。ただ正直実際にどんな測定をしているのか想像しきれていない。遊離輝素をどうやって供給するのか(波面と輝素は光源方向に向かうんですよね)、とか、スペクトルをはかるためのプローブとして何を使うのか、とか。だから結局肝心なところでごまかし気味。
 というかわざわざこんな二次創作めいたことをしているのもカルラたちの論理を今一度追っておきたかったからである。弁明。
 作中独自のいくつかの用語はそのまま使っている。"輝素"は電子、"光源強度"は電荷、"回転物理学"は(特殊)相対性理論におおよそ相当。"光子"は語としてはそのままだが質量を有することに注意。このため光は縦波成分を持つことになる。同じ理由から電場と磁場が遠隔力としては働かない。そのためStern –Gerlach実験のように巨視的な磁場を使った実験からスピンを見つけるのは困難で、時間周波数の長い紫外光レーザーを利用した"光学固体"のような特殊な実験系によって初めてその存在に気付くことになる。
 Homo sapiensの人名を使えない制約などから書けなかった用語について以下に並べておく。

  • 任意の整数は4つの平方数の和であること……Eulerの4平方定理
  • n変数の2乗和の積がそれらの双線形形式n個の2乗和で表せるのはn=1,2,4,8に限られること……Hurwitzの定理
  • 八元数の非零元の全体のように、積について「弱められた結合則」が成り立つ代数系……Moufang ループ
  • なお八元数はCayley代数とも呼ばれる。
  • デルフィーナたちが最初に見つけた実八元数の連立微分方程式は、Majoranaフェルミオンを記述する相対論的波動方程式に等価である。Majoranaフェルミオンはその反粒子と粒子が同一で、従って電荷を持たず電磁相互作用をしない。

 この長さだし世界観について特に練っているわけではないものの登場人物が3人いて名前がほとんど同じなのはそういうことだ。"双"(co)ならぬ……(アシモフの『神々自身』っぽい)。ついでに微妙にD4(\mathfrak{so}(8)と同型なリー環のクラス)を意識しつつイタリア人っぽい名前を選んでいる。

 三対性(triality)は双対性(duality)にちなんで名付けられたSO(8)に特有の性質である。実はイーガンが直交宇宙の量子力学解説ページからリンクを張っている数理物理学者John Baezのページがこれに関するものだったりする。
Riemanian Quantum Mechanics [Extra] by Greg Egan
http://www.gregegan.net/ORTHOGONAL/07/QMExtra.html
Spinors and Trialities by John Baez
http://math.ucr.edu/home/baez/octonions/node7.html
 大雑把に言って、SO(8)の元に対してふたつのSO(8)の元が対応してその組がスピノル表現になっている、というもの。しかも三つ組のなすSpin(8)と同型な群は3次対称群に同型な自己同型群を持っている。まさしく三対性である。

 個人的な経験についても語っておきたい。Spin(6)を以前の記事で調べたあと、自然な成り行きとしてSpin(8)を調べることになったのだが、ガンマ行列をうまく選ぶとその交換子積がすべて8×8実反対称行列が2つ並ぶブロック対角の形になることに気付いた。\mathfrak{so}(8)内に非自明な全単射があるのだ。しかも左巻き成分と右巻き成分からカレントを作ると(本文中では省いたが、レフトルとライトルの共役(複素数八元数両方の共役をとる)の積は実部と虚部がそれぞれ軸性ベクトルカレントとベクトルカレントに対応する)八元数の積らしき形をしている。嬉しい。本文での発見の道順とは逆だった。
 しかしここまで文字通りの意味で八元数によってDirac方程式が書けるとは思っていなかった。いつかこういうパロディをやれたらいいなとは空想していたけど。ちなみに八元数を分解型八元数に置き換えると得られるのは4+4次元Dirac方程式だと思う。Tetrachronauts。

参考文献
グレッグ・イーガン『クロックワーク・ロケット』(2015年、早川書房)
グレッグ・イーガン『エターナル・フレイム』(2016年、早川書房)
グレッグ・イーガンアロウズ・オブ・タイム』(2017年、早川書房)
横田一郎『例外型単純リー群』(2013年、現代数学社)
川村嘉春『相対論的量子力学』(2012年、裳華房)
J.H.コンウェイ、D.A.スミス『四元数八元数 幾何, 算術, そして対称性』(2006年、培風館)