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氷の塔を建てて隣の星へ――グレッグ・イーガン "Phoresis"

 昨年4月に刊行されたグレッグ・イーガンによるノヴェラPhoresis.

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https://subterraneanpress.com/phoresis

 コレクター向けに1000部限定でナンバリングされたハードカバー書籍として発売された本作は, 刊行後まもなくKindle電子書籍ストアでの取り扱いが始まり今では気軽に手に取れるようになっている. 発売から1年経ち, 新作Perihelion Summer(太陽系をブラックホールが通過するという何ともタイムリーな内容)の刊行も目前に迫っている. 以下ネタバレを大いに含む紹介.


 舞台は氷に覆われた双子惑星TvíburaとTvíburi. ふたつの星は非常に近接して共通重心の周りを回っており, 潮汐固定によって互いに常に同じ面を向けている. 大きさも環境も似通ったふたつの星だが、知的生命が暮らしているのはTvíburaのみ. しかしTvíburaの原住民である登場人物たちは, 不毛の土地へと変わってゆく故郷と漸減してゆく作物の収穫によって飢餓の危機に瀕していた。

 物語は3部に分かれる.

 第1部では, 迫りくる危機に対処するべく, 前代未聞の計画が立案される. それは隣の星:Tvíburiへの移住. この部の主人公Freyaによって, ふたつの星の中間点まで聳え立つ氷の塔を建造し, Tvíburiまでグライダーによって飛び渡るという構想が検討される.

 第2部では遂に完成した氷の塔からグライダーによって最初の開拓者たちが旅立つ. 無事に着陸に成功し, Tvíburiもまた生存可能であることが確かめられたものの, 故郷と同じようには開拓できないことが判明する.

 第3部はTvíburi入植後の時代. ふたつめの塔がTvíburiに建てられ, 最初の帰還者が先祖たちの故郷Tvíburaに降り立つ.

 この物語で何より面白いのは塔を建てることで隣の星に渡るという突飛なアイデア. ふたつの星があまりに近いので, ロケットエンジンがなくても宇宙に手が届く. 塔を高くしてゆくと上方向への重力の恩恵が受けられるのもポイント. 特に描写はなかったはずだが, たぶん『ロシュワールド』の双子衛星のように真球から歪んで梨型になっていると思う.

 むやみやたらと過去の作品と比べるのもどうかと思いつつ, しかしこの作品には随所にイーガンがこれまでに描いてきた物語の要素が見られることを指摘せずにはいられない.

  • 人類とは異なる知的生命(ただし精神面ではそう違わない)が,
  • 地球とは大きく異なるエキゾチックな環境で,
  • 種族の存亡を賭けた計画を実行する,

という枠組みは『白熱光』Incandescence(の偶数パート), <直交>三部作Orthogonal Trilogy, Dichronauts等近年の作品で好んで用いられている. 特に,

  • 自分が完成を見ることのない長期的計画によって将来の世代を救うために人々が動く,
  • 異なる3つの世代に跨る,
  • 生殖様式が人間と大きく異なる(Phoresisに出てくる名前のある登場人物は全て雌性個体, 三人称はsheである. では雄はどこにいるかというと...),
  • 産業革命以前の技術水準から宇宙開発を行う,

という要素も考慮に入れると<直交>3部作のミニチュア版と言えるかもしれない. さらに『クロックワーク・ロケット』The Clockwork Rocketには双子惑星ジェンマ・ジェンモが登場していたことも忘れてはいけない. ついでに加えるとダニmite, トカゲlizard, ハタネズミvoleが出てくるのもなぜか同じ. わざとやっている?

 心を打つラストも『アロウズ・オブ・タイム』The Arrows of Timeに近い. 危機の時代に離れ離れになった人々(の子孫たち)が, 互いに予想していなかった再会を果たす. 『七人のイヴ』を引き合いに出してもいいかもしれない.

 と比べてみたが, この作品に感じたややネガティブな特徴としては, おもちゃ箱のような楽しみがあまりないというのも正直なところである. 『白熱光』の一般相対性理論講義, <直交>三部作のSO(4)物理学, DichronautsのSO(2,1)幾何学シュールレアリスムに比べると, 本作の仕掛けはかなりおとなしい. 塔を建てる計画の実行可能性について多少物理学的検討が行われるものの, 異様に頭の切れる登場人物たちがめくるめく科学的議論を繰り広げたりすることはない.

 とはいえこれまでの長編にあった種族的危機に知恵で立ち向かう物語の醍醐味を素朴な舞台設定で楽しめるということであり, それが本作の魅力になっていると思う.

 設定についていくつか雑多なメモをいくつか.

〇 タイトルのPhoresisはそのものが生物学用語として用いられている.
Phoresis - Wikipedia
ダニのような小動物が翅のある昆虫につかまって移動するような行動のことを言うらしい. もう少し広い意味では 接尾辞としての-phoresisが「輸送」や「移動」の意味で使われる.
-phoresis - Wikipedia
一番馴染み深いのは電気泳動electrophoresis. Tvíburi-Tvíbura間の移住を指すほかに, ひょっとするとTvíbura人の雄の在り方もここに含まれているかもしれない.

〇 Tvíburi-Tvíburaに現実のモデルがあるとすればほぼ確実に木星の衛星であるエウロパ. 分厚い氷の層の下に, 潮汐力による加熱で維持される液体の海があり, 間欠泉geyserが表面に噴き出す, というのは予想されているエウロパの様子そのものである. もちろんエウロパには双子のきょうだいはいないし惑星でもないため, 双子惑星で現実にどういった現象が起こるかのかは当て推量によるところは大きいだろうけれど.

〇 連星周りの惑星軌道の話題に比べるとこうした双子惑星に関する議論は明らかに少ない. 形成過程やこういう系の安定性はかなり気になる.

〇 作中Great Walkという語が出てくる. Tvíbura人はこの星の単位で数十日で惑星を一周踏破できるらしい. つまり非常に小さい. 少なくとも塔の建築を計画できて望遠鏡も作れる高度な産業的基盤があることは分かるが, それが維持されるだけの文明のサイズがあるのか, 傍から見て不安にかんじるほどである.

〇 Tvíburiアイスランド語の「双子」らしい. 登場人物たちの名前はだいたいヨーロッパの女性名だが, 最初の主人公であるFreyaは北欧神話由来の名前. Tvíbura人の栄養源は惑星表面の氷の分厚い層の下にある液体の海から茎をのばして花を開く巨大な植物で, これがユグドラシル Yggdrasilと呼ばれている. 寒々しい風景が広がっているので, この名付けはしっくりくる.

ユグドラシルをはじめとして, 基本的に惑星表面の生命圏は液体の海から運ばれてくる栄養に依存していることがうかがわれる. Dichronautsのように進化について直接的に言及されることはないもの, Tvíburi-Tvíburaの地表に住む生命も起源は海にありそうだ. 考えてみればこういった生命の由来に関する考察が披露されていないのも普段のイーガンっぽくない点のひとつ. 読み落としているだけかもしれないが...

 氷惑星あるいは双子惑星の生命に関するspeculative biology的な掘り下げはいくらでもできそうで, 想像が膨らむ. たとえばスティーヴン・バクスターの「グース・サマー」(『プランク・ゼロ』所収)では冥王星カロンの間を渡る生物が登場していた. 惑星間空間を渡る生物のロマン.