Shironetsu Blog

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『エターナル・フレイム』-ベクトル-レフトル-ライトル

 グレッグ・イーガンの<直交>三部作の第2巻『エターナル・フレイム』をよみました。

 最高だった. 科学を開拓していく物語がこんなにもおもしろい. 実験, 分析, 発見…のコンボが次々にくりだされ科学それ自体が物語になっている.

 人間離れした(※人間じゃない)頭のいい科学者が新しく発見された難しい問題を前にして難しい議論をしていく。凄まじい理解に至り超高速で新理論が打ち立てられる。見渡す限りの記念碑的偉業。記念碑の森。

 板倉先生が書かれていることの受け売りだが, ヒト世界の量子力学黎明期の奇妙な実験結果とそれを説明できる理論の発見による驚きの追体験が, カルラ・パトリジア・ロモロたちの活躍する物理学パートの軸になっている.

d.hatena.ne.jp

 その実際の歴史もある意味でこちらの宇宙の"設定"を読み解いていくという物語だった. 『エターナル・フレイム』では, 科学者たちの導きにしたがって本当にあの宇宙の設定を読ませてくれるという体験を味わわせてくれる. すごい.

 くわえて, 第一巻『クロックワーク・ロケット』から貫かれているテーマとして, 幾何学的な原理から物理法則を説明できる点がますます強調されている. あとがきにも書かれているとおり, ヒト宇宙と大きく異なる電磁場, もとい"光の場"の性質のせいで電子機器を使えない(それでロケットが「クロックワーク」なのだった). そのため観測手段が制限され, 現象の観察から大きく跳躍し"幾何学をたど"ることで基礎方程式に着地することが不可欠かつ強力な方法になるのだ. このあたりの事情は『白熱光』の"ザックの原理"などと比較できそう. スプリンターの小さな科学者たちも(物理法則の制限はないが)電子機器を持たなかったどころか光学すら未発達だった.

 一番それが色濃く出ているのが第33章. 次のような印象的な文がある.

パトリジアは呆然としたようすで、「幾何学をたどっていくとすべてがうまくおさまるんですね」
そしてカルラと視線を交わした。こういうことが起こるのをふたりが見るのは、これがはじめてではないが、幾何学をたどるという手法の持つ力は、今回はとくに圧倒的だった。

 "ベクトル":四元数が所与の数学的道具だったために, "あっけなく""レフトル・ライトル": スピノルの発見に至った過程がこの章前半で描かれている. その"あっけなさ"を示すために3人の会話が強烈なものになっているのも愛嬌.*1

 ともかく,実は<一の法則>であった<二の法則>や, 光学固体のエネルギー準位の分裂の観察から輝素波を記述するレフトル・ライトルの方程式に到達するこの過程は圧巻. 補遺2以上の基礎知識が仮定されている気もするので補間しつつ読んでみる.

 その前に著者解説ページ. 作品内で触れられたことより豊富な内容を含む. 正直到底「読んで理解した」とはいえないが以下に書いた作品の解釈が間違ってなさそうだぞという程度の確認はできた.
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 なお自然単位系を使わずに

c:青色光速
h:パトリジアの定数(プランク定数)
ħ:パトリジアの定数÷(2π)

をいちいち書くことにする.


四元数

四空間における回転を記述するもっともかんたんな方法はベクトルの乗算と除算であり、
そのルールを思い出せるようカルラは表を胸に描書した。

 補遺3で説明されている通り, 早い話がこのベクトルというのはハミルトンの四元数だ. この部分以降"ベクトル"という語はおおよそ"四元数"の意味になっている. しかし, あえて"四元数"を使っていない*2のでここでもなるべく作中の議論に沿って考えてみる.

 補遺3に書かれている内容がほぼすべてだが一応基本事項をさらっておく.

 "四ベクトル"の4次元実ベクトル空間としての基底は<東>,<北>,<上>,<未来>の4つ. この記事ではEast, North, Up, Futureを略記してE,N,U,Fとする.

 ベクトルの和は単にベクトル空間の元として和をとればいい. 作中では<東>,<北>,<上>,<下>の逆元に対して<西>,<南>,<下>,<過去>の呼び名が与えられているが,使わないでおく*3.

 ベクトル空間として特殊なのはベクトルとベクトルの積がベクトルになる演算が定まっていること. カルラが"描書"したのは基底間の乗除についての表だった.

 各升目は"横×縦"を表すことに注意. 積は非可換!.

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 ここでは乗算しか書かないが, 除算は積についての逆元を右からかけるだけである. 積の単位元Fに対してE,N,U,Fの逆元が-E,-N,-U,Fになることから定まる.

 慣例に従い積の記号"×"は以下省略することにして, より一般に,ベクトル v = aE+bN+cU+dF を考える. 共役なベクトル v* は v* = -(aE+bN+cU)+dF で定まる. またノルム, 長さを|v|=√(a^2+b^2+c^2+d^2)で定める. このとき成り立つのが以下の関係.

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 さてここまでは「うまく体になっていてすごいな~」程度のことだが(語弊), 4次元空間の回転と結びつくことですばらしい威力を発揮する.


SO(4)

いかなる回転も、あるベクトルを左からかけ、別のベクトルで右から割ることで実現できる。
このふたつのベクトルの選択が全体の回転を決定する。

 以下の定理によって左ベクトルqL・右ベクトルqR対と4次特殊直交群SO(4)は準同型になる. つまり4次元の回転と四元数の組が対応する.

 4次元ユークリッド空間の点(x,y,z,ct)とベクトルx=xE+yN+zU+ctFを同一視する.また,ベクトルqLとqRを長さ1の単位ベクトルとする. (qL,qR)の集合は積について群になっている.
このとき,

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となる一次変換A(qL,qR)が存在し,

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は核を{(1,1),(-1,-1)}とする準同型写像である. A(qL,qR)は直交変換になっている.

 あまり細かく証明してもしかたないので直交変換になっていることだけ確認しておく. ベクトルvとwに対してvw*の<未来>成分Future(vw*)はユークリッド空間の標準内積になる. したがってAが直交変換であることを確かめるには内積が保たれることを見ればいい.

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ちなみに単位四元数とSU(2)が同型であり, SU(2)×SU(2)がSO(4)の普遍被覆群になっている, ということらしいが連続群のことばは全然知らないのでやめとく.

 ベクトルの回転についてのこの関係により, 座標変換

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に従ってベクトルの基底が変換され,

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となることがいえる.


ふたつの複素平面

複素数のペアがあるとき、その両方にマイナス一の平方根をかけたら、ふたつの数は別々に
影響を受ける。ふたつが混ざることは、いかなるかたちでも起こらず、単にそれぞれの複素平面が四分の一回転し、実数が虚数に、虚数が実数になるにすぎない。従って、もし四空間のふたつの平面をふたつの複素平面として扱うのなら、それに等価ななんらかの演算が必要になる」

 この部分では四ベクトルを2成分複素ベクトルと同一視するために, スカラー倍について検討している. 結果, √(-1)倍:各複素平面での四分の一回転は左から<上>をかけるか, 右から<上>で割る操作をすればよいことを見つけている. 後で採用しているのは結局右から<上>で割るほうなのでそれについて見てみる.

 v=aE+bN+cU+dFとしよう. 次のように2成分複素ベクトルと対応させる. 以下いちいち√(-1)と書くのはE,N,Uと混同させないため.これらはあくまで別のもの.

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z=x+y√(-1)とする. vを2成分複素ベクトルとしてz倍するには,

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とするとうまくいく.ただし左辺が(複素ベクトルとしての)スカラー倍で右辺がベクトル積. 確認してみよう.

 まずベクトルの積として.

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 次に2成分複素ベクトルとして.

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 2つの方法でスカラー倍が一致するためvを2成分複素ベクトルとみなすことが正当化される.

 スカラー倍は2つの複素平面内で独立に回転させるのみで, E-N平面とU-F平面を"混ぜない"

 しかしこれは回転と可換にならない――ベクトルをユークリッド空間のベクトルとみなす限り. つまり複素数倍を考えるためには, "ベクトルでないもの"を考える必要がある.

「つまりマイナス一の平方根をかけるのになにを使うにしろ、回転してからかけるか、
逆の順番でやるかにかかわらず、答えは同じにならないといけない」

 そこでパトリジアが思いついたのがレフトルライトルだった. 最高のネーミング.

「通常のベクトルが左からなにかをかけて右から割ることで回転するのに対し、この新しいもの――"左方ベクトル"(レフトル)とでも呼びましょうか――は最初の演算子か受けつけません。割り算については忘れてください」

 カルラはいった。「そんなことはない。関係は単純なものよ」
 カルラは書いた。


  ベクトル=レフトル÷ライトル


 「これだけ」 カルラはいった。

 ここで発見されたベクトルでないものたちは座標変換に伴って次のように変換する.

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 作中では"レフトル÷ライトル"がベクトルになるとされているが, "レフトル×共役ライトル"のほうがやりやすい気がしたのでこちらを選んだ.

 ここから物理の話になっていく. 輝素波の方程式を, 4次元の幾何学に従うものするなら可能性は限られる.

 カルラは、場のレフトル、ライトルとエネルギー・運動量ベクトルの関係を、もっと伝統的な形式に変換した。そこではエネルギーと運動量は、それぞれ波の時間方向と空間方向の変化率から計算される。

 "伝統的な形式"(traditional form)ってなんやねんという感じなのだが, ヒト宇宙の物理も盗み見するとここで導かれた方程式は分かる. さらっと書いたのは簡単さであるためというよりはレフトル・ライトルほどの驚くべき発想ではないことが理由な気がするがどうか.

 まずレフトル・ライトルに働く線形作用素pを考える. 変換則が

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のようにベクトルになるとすると,

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によってそれぞれレフトルをライトルに,ライトルをレフトルに移す作用素であることがわかる.

 pがエネルギー・運動量ベクトルであるとすると, 輝素の運動量-周波数関係から

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の置き換えができる. さらに形式的に

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の置き換えができるため, エネルギー・運動量ベクトルと質量の関係から,

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がここで得られる方程式ということになるだろう. この方程式は点なしスピノルと点付きスピノルの連立方程式として書いたときのディラック方程式に相当するもののよう.

 さてライトルはレフトルに縛られるため自由度は2だけになる. この自由度によって, 光学固体のエネルギー準位の分裂を説明できることが期待される.


角運動量

「新しい波動方程式でこの軸のむきが保存されるか、確認する必要があるわ。じっさいにジャイロスコープの軸のように保存するのかどうかを」

 状態の時間変化を知りたいため,次の表記を導入する.

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 ただし,

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積の同一の添え字については1~3に渡って和をとる.


SはSpace(空間)のSを意図している. S is for Space. ヒト世界数学でいうところのパウリ行列÷√(-1).

輝素波の方程式は

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と書ける. ハミルトニアン*4

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とすると, レフトル・ライトルのペアについて

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がその時間発展を決める. ただしここでは(最初から)自由な輝素波を扱っている.

 軌道角運動量との交換子*5を求める.

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つまり軌道角運動量は保存しない.

 そこで「自転」;スピン角運動量Σ*6を導入しその寄与を考える.

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 このΣに角運動量を名乗る資格があるのは角運動量の代数をみたすため, ということらしい.

 ハミルトニアンとの交換関係は

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となる. これによって

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から"軌道角運動量+自転角運動量"が保存する.

最終的な計算結果は、輝素の軌道角運動量がそれ自体では保存されないことを示していた。しかし角運動量の半分の単位を輝素自体に持たせて、その量*7は固定されるが向きは偏極の軸とともに変化できるようにすると、ふたつを組み合わせた量の変化率はゼロになり、合計の角運動量は保存された。

 ここから光の場の中で輝素がとる状態, 光学固体中のエネルギー準位のスピンによる分裂等を計算していけるはずだが, 力が足りないのでいずれこちら側宇宙のことを学んでから挑戦したい. というか解を求めないことには意味がないので早くやりたいが道が険しい.

 ロモロはカルラを見あげた。
 「これでエネルギーがスピンにどう依存するかを定量化できますね? 新しい波動方程式が、それを可能にしてくれる!」
 カルラはいった。 「それはまた明日」


参考
 はるか昔に4+0次元ディラック方程式について検討されていたらしい方のページ.
http://kuiperbelt.la.coocan.jp/sf/egan/orthogonal/dirac-orthogonal.html
 『ディアスポラ』も詳しく考察されている方. 『エターナル・フレイム』で引っかからないのはもったいないため貼っておく.


妄言
 SO(4); Special-Orthogonal-(Four)のSFなのでSFのSFだ. "S is for SO(4)"でググったりした. 絶対どっかで言われていると思う. どうでもいい.
 Greg Egan’s Home Pageから読める短編"In the Ruins"もSFのSFですね, というのは軽くネタバレ.
gregegan.customer.netspace.net.au


早川書房公式の紹介ページ
www.hayakawa-online.co.jp

*1:あまり出番がない, というかいるのかいないのか分からない記録学者のオネストだが, 控えめながらも思慮深さを感じさせる彼の姿はいいですよね. 訳者あとがきで山岸先生が触れられているように, 彼が最後に語ったことは, 理論や技術が一歩前進するための駆動力,科学者たちの思考の過程をたどることの意味とこの作品のありかたについての説明を含むのだろう. そのうえで思ったのは, 苦労は多くも発見がとんとん拍子で進んでいくようにも見えてしまうのは"編集"を受けているからためだという作者の弁明も含むのかなぁなど.……ううむ, ちょっと失礼か.

*2:ヒト世界の術語を作中で使うか否かの線引きはちょっと面白い. 人名が入るものは当然使わない.ポアソン方程式, パウリの排他律, ボソン・フェルミオン等.  "レーザー"を頑なに使わないのは, 名称の由来がLight Amplification by Stimulated Emission of Radiationのアクロニムであまりに英語に寄りすぎているからじゃないかと思う.  "四元数"(quaternion)を避ける理由はあまりはっきりしないが, スカラー(複素数)倍と単なる四元数の乗算を混同しないようにする目的はあるかも?

*3:というか美的感覚はともかくこれら4ついらない

*4:カルラたちが各物理量を求める方法についてはあまり明確にされていない……気がする. しかしなんにせよヒト世界量子力学と等価な方法で計算しているのはまちがいないのでここでディラックハミルトニアンを持ち出す.

*5:そういえば交換関係とかいった言葉も作中に出てきていない. 全般的に,一度数式に翻訳することさえできればそれを解くための数学的技法は本質的ではないのでそこでいちいち躓かないというような描き方がなされている気がする.調和振動子の問題とか一瞬で解いている(ように見える)し.

*6:SはSpaceのSとか言って大文字Sを使ってしまったのが健康に悪く, ふつうここには記号Sを使うところだが逆転させた.

*7:amountの訳だが, たぶんスピン角運動量の2乗和のことなので「総和」とかのほうがそれっぽい, と思う.