Shironetsu Blog

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2次元・3次元ラグランジュ点の位置と安定性

 私を無理矢理平面の肉体に押し込み、案内役も無しにこの宇宙を探索させた〈圧搾者〉も、精神の消失からは私を保護してくれたようだった。復活した直後の安堵と微睡みのなか視野に飛び込んできたのは星空だった。やはり2πラジアンの。しかし今度は赤い太陽は無い。ただしどうやら拠り所の無い空虚、恒星間空間の寂しさを味わうことになるわけではなさそうだ。この領域を重力によって支配している星がどれなのかはすぐに見当がつく。視野中の近い場所に並ぶ、一際明るく輝く2つのそっくりな青い星、連星だ。そして私のいる位置が特殊な場所であることもまもなく分かった。双生児に挟まれた領域の視角度はおよそπ/3ラジアン――ここは正三角形の頂点であり、そして多分連星系のラグランジュ点。

 重力の逆2乗則が成り立つ我々の3次元宇宙では、共通重心の周りを重力によって円運動する2天体の周りに、無視できるほど小さい質量の物体が2天体との相対位置を変えずに留まることのできる点が5つ存在する。2天体からの重力と遠心力が釣り合う点である。これらのことをラグランジュと呼ぶ。一般的に、質量の大きい主星Aと小さい伴星Bに対して、各点は図のようにL1~L5と呼ばれる。ABを結ぶ直線上にL3、L1、L2が並び、ABを1つの辺にもつ2つの正三角形の頂点のうち回転方向前方にL4が、後方にL5が位置している。
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 太陽-地球系のL1点は常に太陽を観測することができる。現在も運用中のSOHOや、最近地球の前を横切る月を撮影して話題となったDSCOVRはここにある。

 太陽-地球系のL2点は地球の陰によって太陽光が遮られるため宇宙望遠鏡の設置に誂え向きである。実際、宇宙背景放射を観測したWMAPやプランクはここに置かれた。ハッブル宇宙望遠鏡の後継機であるジェームズウェッブ宇宙望遠鏡*1もここに置かれる予定になっているらしい。

 L3点は主星を挟んで伴星の反対側に位置するため、太陽-地球系、地球-月系のどちらでも特に利用されていない。

 太陽-木星系のL4、L5点にはトロヤ群と呼ばれる小惑星の集合がある。なお、より一般には太陽と各惑星の系のL4、L5点に位置する小惑星の集合をトロヤ群と呼び、土星や地球にも存在するらしい。*2

 ところで、L1~L3には天然の物体は存在しないとされている。というのも、ここでは物体は軌道修正無しには安定しないためである*3。一方、L4、L5点にはトロヤ群のような小惑星や塵が存在するとされている。ただしその安定性には主星の質量が伴星の(25+3√69)/2≒24.96より大きいという条件が課せられる。たとえば太陽-地球、太陽-木星、地球-月系ではそれぞれ33万、1000、81倍と条件が満たされる*4。ところが、最近探査機ニューホライズンズの撮影した初めての詳細な地表の画像で話題になった冥王星-カロン系では、冥王星の質量がカロンの9倍程度であるため*5、この系の正三角形ラグランジュ点で軌道は安定しない。

 さて、ここまでは3次元の話だった。では「逆1乗則」の引力が働く2次元ではどうか?実は相変わらず直線上に3つ、正三角形の頂点に2つ、ほとんど同じ位置関係で「ラグランジュ点」が存在する。そしてL1~L3が不安定なのも同じである。しかしL4、L5での振る舞いがやや異なる。なんと2天体の質量比によらず安定するのだ。

 連星系ならここに太陽風や星間塵などに由来する物質が集積してニーヴンの『インテグラル・ツリー』に出てくる「スモークリング」のような地面のないガスの濃い領域ができるかも……。何せ2次元では重力は対数ポテンシャルの「井戸」を持つから物質に脱出速度は存在しない。ずっと空の同じ位置にある2つの太陽からの光を得るべく領地争いをする植物、コリオリ力の働きを生来知るジェット噴射推進動物、L4とL5で独立に発達する生態系……色々想像すると楽しい。
 ただ問題があるとすれば自己重力で惑星になってしまうのではないかということ。それはそれで面白そうだが「ふわふわ」した感じが失われてしまう。ついでに言うと安定性も分からないし、そもそも天体の形成過程などは考え出したらかなり危うい部分が多くなってしまう……。でもSFの舞台としてはおもしろい場所だと思う。

 ルンゲ-クッタ法で計算してみると*6実際この点の周りで準周期的な軌道を描く様子を見ることができる。

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左から順に主星:伴星質量比1:1、9:1、81:1の、逆1乗則重力下でのL4点のまわりでの物体の軌道。2天体間距離が1で重心は原点、yが負の側に重いほうの星がある。

比較用に主星:伴星質量比81:1(地球:月)の、逆2乗則重力下でのL4点のまわりの物体の軌道を示しておく。
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ちなみにこれらの図に見える楕円は、主星:伴星質量比が大きいときには短軸を延長すると主星にぶつかる。

 いや、むしろ(25+3√69)/2という数の出てくる逆2乗則重力のほうが奇妙と言えるかもしれない。単純な問題設定の中からどうしたらこんな数が出てくるのか?せっかくなので「逆k乗」の重力としてラグランジュ点の導出から安定性まで一緒に計算してしまおう。とはいっても専らk=1,2を想定し、それぞれ2次元、3次元の場合に対応している。なお平面の問題として処理するため3次元の場合のz座標について考慮されないが、z方向はxy方向とは独立に単振動すること、つまり安定であることが知られている。

運動方程式

 xy座標上で、質量(1-q)Mの天体AをxA = (-qR,0)に、質量qMの天体BをxB = ((1-q)R,0)におく。
ただし 0 < q < 1 とする。このとき重心は原点にくる。2天体が重心の周りで円軌道をとるとすると,距離のk乗に逆比例する重力の下で、運動方程式からその角速度ωは
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である。この系において、位置x=(x,y)にある質量m(Mに比べて無視できるほど小さい)の物体の運動方程式
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である。ただしJはπ/2回転の行列で
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である。

 mω^2で割り、時間tによる微分をωtによる微分に変え(ただし引き続きドットを使う)、X=(X,Y)=x/Rによって無次元化すると
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すなわち
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簡単のため
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とおく。

この微分方程式の平衡点を求める。そこがラグランジュ点である。

ラグランジュ点の導出

時間変化が無いことから、
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が解くべき式となる。第2式から2つの場合に分けられることが分かる。

(i) Y = 0のとき(直線解)
第1式に代入して
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  • k=1のとき

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f(X) = X-(1-q)/(X+q)-q/(X-1+q)とおくと、
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から、X < -q, -q < X < 1-q, 1-q < X にそれぞれ1つずつ解を持つことが分かる。順にX3,X1,X2とし、それぞれに対応する点をL3,L1,L2と呼ぶことにする。なお数字の振り方は一般的なラグランジュ点に対応させた。
ちなみにqが0に近いとき、その値は
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によって近似できる。

  • k = 2のとき

k = 1のときと同じ区間に同数の解がある。
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(i) Y ≠ 0のとき(正三角形解)
第2式をYで割って、
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(X+q)(式20)-(式7)および(式7)-(X+q-1)(式20)より、rA = rB = 1が分かる。これより、(X,Y) = (1/2-q,±√3/2)。Yが正の点をL4、Yが負の点をL5としておく。


安定性の解析

 線形近似によって平衡点の周りでの安定性を調べる。平衡点(X0,Y0)からわずかにずれた点を(X0+ξ,Y0+η)とする。

 ここで予めf(z,w) = z/(z^2+w^2)^((k+1)/2)の1次の項までのテイラー展開を求めておく。
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より、
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これを用いると、
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(i) 直線解
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γ^2 = (1-q)/rA^(k+1)+q/rB^(k+1) (γ>0)と置くと、この2元2階線型連立微分方程式固有値λは
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ここで、式(10)より、
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を導いておく。

  • k = 1のとき

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L2では X0 < -q < 0, rA < rB より、γ^2-1 > 0
L3では X0 > 1-q > 0,rA > rB より、γ^2-1 > 0
L1での安定性を調べるために、0 < p < 1として X1 = p(1-q)+(1-p)(-q) = p-q(AとBをp:(1-p)に内分する点)とおき、式(10)を用いてqを消去すると、
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ゆえに γ^2-1 > 0。なお q = 1/2 のとき X1 = 0 となるが、このとき γ^2-1 = 3 > 0 で同様。

以上より、直線解では必ず正の実数の固有値を持つため不安定。

  • k = 2のとき

k = 1のときよりやや煩雑だが必ず正の固有値を持つことが示される。

(ii) 正三角形解
(X0,Y0) = (1/2-q,±√(3)/2)
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固有値λは、
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から、
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  • k = 1のとき

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0 < q < 1で0 < q(1-q) < 1/4であり、-2 < λ^2 < -3/2, -1/2 < λ^2 < 0となり、λは必ず4つの異なる純虚数となる。従って軌道は安定。

  • k = 2のとき

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0 < q < (9-√69)/18, (9+√69)/18 < q < 1 のとき、λは必ず4つの異なる純虚数となって安定。

(9-√69)/18 < q < (9+√69)/18 のとき、1-27q(1-q) < 0 より、
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 このときλは純虚数でない複素数を含む。式(43)から、4つの固有値の和は0(∵解と係数の関係)であるため、その実部が全て負となることはない。ゆえに不安定渦状点になる。

 結局、2つの天体の質量比 r = q/(1-q)について、
・ 0 < r < (25-3√69)/2, (25+3√69)/2 < r のとき安定
・ (25-3√69)/2 < r < (25+3√69)/2のとき不安定となることが分かる。

 復活によって得た新しい肉体は赤い太陽を周回していたときのそれとは異なっていることに気付いた。自分の姿をはっきりと見ることはできないが、おそらく対角線の長さが2対1程度の菱形をいくらか丸くした形だ。こうして星と自分の体を眺める眼は両方の鈍角の頂点の周囲にあるように思われた。この肉体はここにいるのが自然であるような姿なのだろうか?
つまりこのラグランジュ点を利用して生きる住民の? 他の点よりも集積しやすいとはいえ、物質はやはり希薄に見える。ここだけで暮らすのはあまり魅力的には思えない。しかしもし中継基地があるならこの連星系から抜け出して旅立つには重要な場所だろう。

 星と星を渡る――定義はともかく文明を持たないという条件付きで――生物は進化の過程を考えるとほとんどありそうに思えない。時間、エネルギー、物質のどれもが不足する。だがそれはあくまでも故郷の宇宙での話だ。現に私は赤い太陽の軌道上の生物圏を見てきた。物理定数同士の関係が変わり、例えば化学が相対的により激しいエネルギーの交換を伴うものであれば、生物のあり方も全く異なるものにもなりうるだろう。

 私は2つの青い「目」に見つめ続けられながら、正三角形の頂点で力を抜いて待つことにした。

*1:予算の増大と完成時期の延期で計画は色々と難航しているらしい。広報ツイッターアカウント→ @NASAWebbTelescp https://twitter.com/NASAWebbTelescp

*2:L4よりL5のほうが小惑星が多いという謎についてクラークの『神の鉄槌』で触れている箇所があった気がする。しかし観測誤差によるものという話もあって詳しいところはよく分からない。

*3:視聴当初は気付かなかったのだが、今放送している戦姫絶唱シンフォギアGX第1話「奇跡の殺戮者」冒頭で出てきたスペースシャトルラグランジュ点で活動していたとか(ちらっと風鳴司令が口にしている)。ナスターシャ教授はどこのラグランジュ点に漂っていたのだろう。

*4: 太陽系で最大の惑星は木星であるため、他の惑星も太陽とのラグランジュ点を持つ。  また、地球 : 月は太陽系の惑星-衛星では最大の質量比を持つ。ゆえに他の7個の惑星ではいずれも条件が満たされるが、単純な制限三体問題として考えられるのか(たとえば木星には質量の近いガリレオ衛星が周回していて、他の衛星からの影響を無視できない)、安定性なのかどうか、よく分からない。

*5:冥王星が惑星から「降格」されたはまさにこの「衛星」が「惑星」に対して大きすぎるという事実が一つの理由になっている。

*6:Perlでプログラムを書いて出てきた数値をExcelにプロットさせた。gnuplotのような専用ソフトにやらせたいところだったのだが…。

燠火(解説)

 グレッグ・イーガン『白熱光』、ハル・クレメント『重力の使命』*1ロバート・L・フォワード『竜の卵』、スティーブン・バクスター『天の筏』、ラリイ・ニーヴン『インテグラル・ツリー』、そしてアーサー・C・クラーク野尻抱介の多くの短編……等々多くのSFで扱われる「重力ネタ」*2。身近でありながら少し違った環境に出ると驚くべき振る舞いをする、もっともSF的な自然法則の一つであり、特にハードSFの題材として親しまれている。

 「燠火」(おきび)はそういったSFにあこがれて書いた。「作業仮説」よりはSFとしての体をなすように目指したが、結局(特に最後の方)長々とした説明にならざるを得なくなって残念。

 舞台は2次元宇宙。相変わらず『ディアスポラ』の5次元宇宙物理やA・K・デュードニー『プラニバース』に影響を受けている。作中の世界の構築に興味深い科学的考察を使ったわけではないが、語り手がぶつぶつと考える物理は本物である。高度が下がれば加速し、上がれば減速するというのは我々の宇宙と同じ。というか衛星の挙動には、少なくともこの作中では面白い現象は起きない。ただしその推進方法が問題となる。

 実は当初、語り手が最初に予想したように「磁場中の浮力」を使って高度を変えて推進する方法について考えていた。舞台もそれをもとにして構築した。しかし閉じた定常電流は内部に均一な磁場を作るのみで、外部には磁場を作らなかったのだ!つまり環状電流同士は磁気的な相互作用を持たない。ざっくり言うと2次元空間に磁力は存在しない*3。これには困った。磁気による衛星の推進といえば藤井太洋『オービタル・クラウド』が記憶に新しいが、あの手が使えないのである。というわけで白状するとその推進機構については投げた。捕食者に食われてしまった語り手が再び目を覚ますときが来れば語ることになるだろう(?)。

 語り手が考えた問題はもう一つある。重力そのものの由来である。こちらには一応の答えを出した。自然に考えれば重力は距離に逆比例しそうだが、一般相対論から静的重力は現れない。リーマン曲率テンソルとエネルギー運動量テンソルの独立成分の数がともに6個となってしまうことが原因、と説明されるがこれについてはよく知らない。しかし3次元でニュートン万有引力の法則を再現するときと同じように線形近似で計算するとそれが分かる。作中でも述べたとおり、質量ではなく運動エネルギーが重力の源として卓越する。一般相対論由来の万有引力の法則は存在しない。ではどうすればいいか、というと最も素朴には電磁気の法則と同じものを成り立たせればいい。クーロンの法則と万有引力の法則が完全に対応するようにするのである。ただし同符号同士で引き合うように。その電荷の対応物はまさしく「重力質量」である。慣性質量と重力質量が同じものであることを言う等価原理を無視してしまう。マクスウェル方程式型の重力法則は相対論的共変性を持つため数学的には問題は無い*4……が、負のエネルギーが現れてしまうのが問題らしい。この点については正直よく分からない。

 2次元の電磁気と重力の法則についての面白そうな話題を入れた短いストーリーを書くことができて満足した。もっと考察ができれば、たとえば運動エネルギーによる重力の支配する世界とか、回転する帯電円盤内の磁場に満たされた空間を描くことができそう。2次元世界の話というのはポピュラーでありながら、ハードSF的考察の加えられたものは案外少ない。面白い話題だと思うので、そういうSFはもっと読みたいし、色々と考えたりもしてみたい。

*1:原題は"Mission of Gravity"。『重力の使命』は早川書房版で、東京創元社での邦訳タイトルは『重力への挑戦』。半世紀以上前に書かれた素朴な味わいのハードSFの名作として有名だが、数年前に創元SF文庫から一時期復刊されたのみで今は中古でしか手に入らない。どっちでもいいから復刊して!

*2:書いていて気付いたが真っ赤な霧って『天の筏』の世界の視覚的イメージそのまんまじゃないか……。パロディとして許してほしい。

*3:これは実は『プラニバース』にもさらっと書かれているのだが真意を理解していなかった。

*4:一般相対論は重力を説明するものではなくなるが消えてしまうわけではない

燠火(後半)

 同類――私と同じくプレスされた人間?この世界についての有益な情報を得るためか、単に共感を求めるためか、危険の可能性を省みることなど忘れた私は一心不乱にコンタクトの手段をこの体の中から見つけるべく、再度まだ使っていない感覚を探った。まずはこちらが名乗って挨拶し、名前を教えもらおう。それまで彼のことは1号と呼ぶ。

 ここが真空であることには今やほとんど疑いを持っていない。音波はだめだ。では電磁波は?体を縁取る線に並ぶ点の中にクラゲの如く発光するものがあり、それが意思疎通に用いられるものなら受容器も備わっていなくてはならない。そしてその「言語」を解する能力が――たとえ人間の言語並かそれ以上に複雑なものであろうと――〈圧搾者〉は私の脳に必ずそれをインストールしているはずだ。自分の目指す姿に玩具の光るコマを想像した私はその滑稽さを感じながらも、あるともないとも知れない感覚を操ろうと必死になった。しかし一向に応答は見られない。1号は無視を決め込んでいるのか、眠っているのか、あるいは死んでいるのか。ここでふと彼がずっと動かないでいてくれるなら重力の「逆比例則」を検証することができることに気付いた。
CW解は4つの定数A、θ0、c0、c1によって
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とも表せるがこちらのほうが意味は明確だ。「太陽」からの平均軌道半径は、目標物体のそれをRとするとR+2c0で表せる。近ければ角度方向正の向きへ離れてゆき、遠ければ負の向きへ離れていく。しかし平均半径が等しければ円軌道をとる目標物体の周りを、公転と反対の向きへ縦横比1 : 2αの楕円状に周期2π/αωで回転することになる。公転周期はT=2π/ωであるから、その1/α倍だ。今もしk=2なら1/√2倍――すなわち1回の公転の間に目標物体の周りを約1.4回巡ることになる。目印は必ずしも円軌道でなくていい。平均距離さえ等しければお互いの位置関係は周期T/αで元に戻る。

 これを利用すれば1号を利用してαを測れる。まず彼に追いつき、「太陽」からの平均距離の等しい軌道に乗る。そして公転周期を測るため空に目印となる星を見つけ、1回公転する間の彼との上下関係の変化回数を測る。1回半弱であればその計測はk=2を支持する結果となる。

 問題は平均距離の等しい軌道に乗る方法、公転周期を同期させることだ。公転軌道の扁平率が1に近いほどそのずれの測定に及ぼす影響は大きくなる。動的な修正によって公転周期を彼と同期させることは可能だろうか?

 そんなふうに逆比例則の検証方法について考えてぼんやりとしていると、1号が突然動き出す気配を感じた――波だ。彼が眠りから覚め空間に波を立てたのだ。それは人間の器官だけを持っていたときには知らなかった感覚だった。存在に気付き襲い掛かってくることを警戒した私はすぐに動き出せるように身構えた。心臓があれば速くなった鼓動が聞こえるところだろう。

 緊張の瞬間はすぐに彼によって破られた。彼はゆっくりと斜め下方に向かって動き出した。私をおそれて逃げている?しかしここで見失ってしまうわけにはいかない。私は彼を追跡することにした。

 1号は私が経験したのより明らかに速い速度で降下していった。新参者にとってはなかなかのスリルを伴う体験だ。体感で――ここでは主観的時間以外の基準に意味はない――数分間の降下の後、星が瞬き始めていることに気付いた。太陽の最上部層を潜ったのだ。これが故郷の太陽; ソルで私が通常の有機物の体を持っていれば、とっくに焼け焦げるどころかプラズマと化して跡形もなくなっているところだ。だがこの体にはその心配は無さそうだった。私の懸念は別のところにあった。大気のある層に潜れば必然的に抵抗による減速を受ける。自ら体勢を立て直すことができなくなるほど減速してしまえばあとは落下するのみだ。この体でそんな事態を回避することができる高度を気付かないうちに下回ってしまうことはありえる。1号にこのままついていくことに不安を感じ始めたとき、ようやく彼が減速するのを感じた。

 そこには赤い霞がかかっていた。人間の色彩感覚の残滓を備えていた私には熱さを感じさせる風景だったが、実際には熱は感じていなかった。そもそも温感が無い可能性も無視できないが。その代わりに私が感じたのは原始的な衝動だった。1号がこの層に降りてきた理由もおそらく同じだ。このクラゲの肉体は栄養源としてこの赤い霞を摂取するようにできているのだ。この4回対称の体に口があるとすれば腕と腕の間か、そこにあるとなら消化器も袋状のものが4つずつか、分析的な目で理性を保てるふりをしながら私は特に味覚を刺激しない赤い霞が空腹感を満たしていくのを感じた。これではまるで、その世界の食べ物を口にした瞬間に元の世界との繋がりを断たれ、そこに囚われることになる古い物語の類型をおそれる子供のようではないか。自分がこのクラゲになりきってしまうことへの抵抗を忘れないようにしながら、私は霞の濃い方向へと絶え間なく移動を続けた。

 この層にやってきた目的を思い出したのは空腹感が満たされ、理性が主導権を取り戻した後だった。いつの間にか1号は視界から消え、周囲には一段と濃くなった赤い霞が拡がっていた。食後の倦怠感に包まれた私は、そこで追跡が失敗に終わったとみなすことに決めた。ここに食料があるなら同類にはまた出会えるだろう。

 訳も分からず口にした赤い霞で満ちたこの空間を改めて見回すと、今更ながらに気味の悪さを感じることになった。赤は何よりもまず血を思い出させる。アンタレスがサソリの心臓であるように、この太陽も心臓ならさしずめ私は臓器を蝕む寄生虫だ。

 ここで私は疑問を抱いた。アンタレスの表面にもこんな霞はかかっているのだろうか。多少太陽に近づいたとは言え、この層は明らかにまだまだ希薄な領域だ。「表面温度」を測るには多分まだ冷たすぎる。

 減速の恐怖から高度を維持しようと努めて漂っていると、しばらくの後にヒントは現れた。赤い綿だ。私の5分の1程度の大きさの扁平な楕円、ちょうど霞を固めて雲にしたような印象を抱かせる。それと同時に私が想像したのは植物プランクトンの群体だった。小さな粒子状の単細胞の藻が集まって形成する群体――赤色光が光合成色素の色なら。となると〈圧搾者〉が私に赤色を見せた理由についての仮説は一旦捨てねばならなくなる。この赤色が星の表面温度では無く植物の発する色であるなら、緑色を見せていればもっと早くに気付けたはずだ。

 プランクトンを食べる私のこの体はもしかするとクジラなのかもしれない。それとももう少し単純な軟体動物か。いずれにせよこの赤い藻類より複雑な体制を持っているのは確かだ。であれば植物の方ももっと高等なものがより下層、大気のいくらか濃い領域に繁茂しているに違いない。そして太陽の本当の表面も見ることができるだろう。私は再び降下を開始した。

 未開の地に足を踏み入れた博物学者の気分で「森」を目指す探検は、しかし「波」によって中断を余儀なくされることとなった。何かが迫ってくる。さっきと同じ同類ではない。本能はサイレンを鳴らし、私の感覚を鋭敏にさせた。本能的な恐怖――それは天敵、捕食者の接近を意味する。予想しておくべきことだった。ここがよほど原始的な生態系の発展途上にない限り、草食動物がいるなら当然肉食動物もいる。そして私のこの体は草食動物、被食者のもの。捕食者に狙われていることは警戒してしかるべきだ。

 公転方向前方下側! 「波」を捉える感覚が捕食者の接近方向を察知させた。姿の見えない捕食者は、その高度を上げれば角速度を減じて私とランデブーすることが出来る。そうなれば私の負け。しかし同時に私も高度を上げれば公転後方に後退して逃げることができる。

 それ以上軌道力学を検討する暇など無い。すぐに宇宙空間への上昇に転じた。逃げ切れることを祈ろう。
結局私はこの一心不乱の鬼ごっこに勝利することができた。おそらく最初にいたところと同じくらいの高度に戻ってきたのだろう。星は再び瞬きのない点となり、視界の半分以上が暗黒の天球に占められた。

 ジャングル探検をするにはまだ私は未熟すぎた。もう少しここで星を眺めていよう。星を睨みながら、公転前方と後方で星の色に変化は見られないか観察した。もし公転速度が光速に比べられる程度に大きければ前方は短波長側に、後方は長波長側にドップラー偏移を起こすだろう。しばらく待ったが変化は見られなかった。無論暖色灯のもとでも色の認識が変わらないように、わずかな波長の変化を脳が処理して補正している可能性もあるが、さしあたってここにある物体が亜光速に達しているとみなす必要はないだろう。

 この観察は相対論を考えるための第一歩だ。私の関心は太陽の照らすもとに縛り付けている重力だった。
重力を説明するのはアインシュタイン方程式だ。
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定数κは故郷の3+1次元宇宙でなら8πG/c^4と表されるだろう。しかし万有引力定数はいわば派生的な定数だ。ちょうど真空の透磁率とクーロン定数の関係のように。n+1次元時空ではκを定数にとるほうがいい。

 そう、弱場近似の仮定の下でアインシュタイン方程式に線形近似を施すと一般相対論の方程式は電磁気の方程式との類似で語りうるものになるのだ。ミンコフスキー時空からのずれが微小であるとするとは
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ととることである。エネルギー運動量テンソルとして完全流体のそれを取ると、「ローレンス条件」のもとでダランベール演算子□を用いて計量の方程式として
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が得られる。ρは各点の質量密度、vは質量の流れの速度で、完全流体の式に従う。そこでの質量m、速度Vの質点の運動方程式は測地線の方程式の近似として
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が得られる。実際には軌道はmに依存しない。ここで場に時間変化は無いという仮定を加えて次のように置き換えると電磁気との類似は明らかになる;
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いわば「重力の電磁ポテンシャル」と「重力の電磁場」、そして「重力のローレンツ力」だ。ここから「重力のスカラーポテンシャル」についてポアソン方程式を解くとニュートン万有引力の法則が導かれる――が、それは3+1次元以上の宇宙でしか通用しない。n=2では明らかに事情が異なる。式を見れば分かるように、(n-2)の因子が入っていることによって、静止した質量は「重力電場」を作り出せないのだ。「重力電場」の源としては質量の流れの速度の2乗に比例する項が支配的になる。
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 エネルギーと質量の等価性を考えれば自然なことだ。2+1次元宇宙では運動エネルギーが重力場を作る。

 違いはそれだけではない。静止質量が卓越しなくなることで、「重力磁場」も同程度の働きを担うことになる。普通の磁場は平行電流同士で引き合い、反平行なら反発する。アンペールの法則だ。しかし重力磁場は平行な質量の流れ同士で反発し、反平行で引き合う。ちょうど万有引力クーロン力で符号が逆転するように。

 私はここまで考えて赤い太陽を眺めた。ここに来たときと違い、今ではあの赤さが光合成色素によるものだと考えている。2+1次元宇宙版ヘルツシュプリング・ラッセル図にあてはめるのはしばらくやめておこう。もしかすると天球に分布する星々のあの色も星本来の色ではないのかもしれない。

 そんな奇妙な重力のもとで、あの太陽はまとまっていられるのだろうか?核融合を進行させる圧力は?しかし事実としてこの太陽は存在するのだ。そこを回る私や1号、捕食者も。

 重力を電磁場のアナロジーで語る前に、2次元電磁場についての理解を深めておかねば。視覚がある以上――偏執的に脳による再構築を疑わない限り――ほとんど間違いなく電磁波は存在する。

 では電磁場はどのような力を及ぼすか?基本はローレンツ力だが、場にかかる応力を電気力線のように捉えるためには先にも用いたマクスウェル応力テンソルを考えるのが便利だ。
行列形式で書くと、
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となる。ただし2行目でBはB12成分を表す。

 2次元において磁場の独立な成分はB唯一つしか存在しない。これを擬スカラーに対応――3次元において2階反対称テンソルの磁場を擬ベクトルに対応させるのと同じく空間の向き付けに依存――させると、それは「濃さ」としてイメージできるだろう。中性が灰色なら、正は白色に、負は黒色とすればよい。同符号なら強め合って色は濃くなり、異符号なら弱めあって灰色に近づく。平面内に磁場のグラデーションができることになる。便利な見方だ。

 注意を引いたのは磁場の応力テンソルだった。この形は等方的な応力、圧力のそれだ。符号を考えるとBの「濃い」ところほど―白黒どちらでも――圧力が強くなることを意味する。

 磁場のおよぼす力は3次元では磁力線を持つ弾性体のアナロジーで捉えられてきた。ここ2次元では弾性体が完全流体に置き換わるということだ。圧力B^2/2μ0の流体――磁場を作るものは磁場の中を「浮き沈み」する。

 そのイメージが閃きをもたらした。磁場の白黒は電流の左回り・右回りに対応するだろう。ならば磁場に関して環状電流はモノポールのように振舞うはずだ。そしてその相互作用は圧力の考え方を使うと、まさしく異符号――右回りと左回り――同士で引き合い、同符号同士で反発することになる!というのも、異符号同士だとその間にできる磁場は弱められ、圧力も小さくなり、「浮力」が働くからだ。同符号同士ではその逆のことが起こる。

 気分転換に太陽の方へと近づいてみたり、遠ざかったりしてみた。私はこれを飛行として捉えていた。しかしもし磁場の中を浮き沈みしているのなら泳ぎにたとえるほうが近いかもしれない。太陽が磁場をもっているなら、体の中の電流の向きを変えることで浮き沈みすることが可能になる。

 仮説を立てたなら計算しよう。円電流同士の相互作用を求めるため、今度は電磁ポテンシャルで電磁場の方程式から始める。
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時間変化が無いと仮定して磁場についてのみ考える。原点から遠方で十分早く減衰する境界条件の下でポアソン方程式を解くと
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から多重極展開が得られる。「点磁荷」が存在しないことや多重極子の対称性から、高次の項を無視すると
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Mが磁気双極子モーメント、Tが磁気四極子モーメントを意味する。
双極子モーメントの作る磁場を考えよう。B12成分のみを考えればよいから、
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――不意をつかれた。ゼロだ。磁気双極子モーメントは2次元では磁場を作らないということだ。

 3次元においては磁石の源は(少なくとも古典論的には)微小な環電流の作る磁気双極子モーメントとして説明される。いわば磁場の源の最小単位だ。私がこの世界に来る前に高次元の磁場の源として計算したのも磁気双極子で、確かに磁場は形成されていた。その磁気双極子が、2次元でも存在するのに磁場に寄与しないのだ。

 では四極子を計算しよう。四極子は各成分が先の関係式によって結ばれているため、独立成分は2つしか存在せず、
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と表せる。これならどうか?さっきよりいくらか複雑な計算の結果はまたもゼロだった。この時点で私は悟った。おそらく2次元空間で閉じた定常電流は遠方に磁場を作らない。

 私は悩んだ。ヒントは素朴にアンペールの法則を思い出すことで得られた。磁場と電流の関係は
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となるのだった。これはナブラを使った表記では
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を意味する。この式の意味するところは、「擬スカラー」Bの勾配が電流をπ/2回転した方向を向くということだ!となるとそのイメージは簡単だ。円形に正の向きに電流が流れる回路を考えよう。電流をπ/2回転させると全て中心を向く。「デルタ関数的」な勾配を考えると、そこにできる磁場は回路に囲まれ3次元方向に張り出した円柱として想像できるだろう。内側、外側でそれぞれ一定値をとることになるのだ。そして自然に考えると外側でその値はゼロになる。私はここでソレノイドコイルのつくる磁場を思い出した。無限に長いソレノイドコイルは内外それぞれに均一な磁場を作る。ここ2次元世界では均一な磁場はもっとありふれたものになる。先の磁場の濃さの考え方を使うと、回路内部で均一な白色または黒色で、外部は中性の灰色になる。これをグラデーションとは呼べない。ある意味で回路がモノポールになるという見方は正しかった。しかしそれは内部にしか磁場をもたないものだった。

 ここまでくればマクスウェル方程式全体をより直感的な形に書き換えてしまおう。π/2回転の行列をKで表すと、
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が電磁場の方程式となり、ローレンツ力は
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になる。

 私は途方に暮れた。磁気双極子同士の相互作用として太陽への浮沈を説明できると考えていたが、それは間違いだった。太陽と私以外を真空と考える以上、磁場は力を与えない。

 では何を仮定すればいいのだろう。実はここを真空をみなすのは間違っている?あるいは輻射圧はこの体を浮き沈みさせる程度に大きい?それとも全く別の力?

 もっと考えるための材料が要る。私はここに来てもっとも単純な可能性としてのいくつかの物理法則を仮定して考えることを試しているに過ぎない。

 何から手をつけようかと思案しているときだった。捕食者はこの高度にもいたのだ――後方上側から「波」がくるのを感じた。下側に逃げるほか無い。2度目の逃走の中、私は重力について考えた。この重力が計量によるものであることを支持する現象は未だ見ていない。しかし星の様子はあまりにも太陽に似ている。場が2つのマクスウェル方程式を持つことを禁じる法則はあるのだろうか?もし無ければ、重力質量とそれについてのマクスウェル方程式を考えてみるほうが、運動エネルギーが重力源となると考えるよりも、私を太陽の方向へ引っ張り太陽自身をまとめる力の可能性としては単純かもしれない。

 捕食者から逃げる中でそんなことを考える余裕を持つためには、彼らについて私は無知すぎた。私の目が捉えたのは、先の割れた楔形をした赤い斑――というか破線――の物体だった。表面の艶は甲虫のそれを思わせる。彼らは狼のように群れを成して狩りをするための連携をとれる賢さがあったのだ。まんまと罠に追い込まれた被食者は、その裂けた楔形の顎に捕らえられ、身を潜めていた他の仲間が3,4と集まってくるのをもがきながら眺めた。

 やるべきことはまだある、と言うよりまだ何もやっていない。〈圧搾者〉の目的が何であれ、わざわざ呼び寄せた以上むざむざとここで殺してしまいはしないだろう。私は意識が途切れ途切れになってゆく中で次に期待した。



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(この短いSF(?)中で語り手が一人考えることは、2+1次元宇宙の電磁場についての考察に基づいている。2次元、「フラットランド」の電磁場である。作中いきなり出てくる2次元マクスウェル方程式の妥当性については、一般次元(n+1次元時空)電磁場についての考察そのものを扱った「作業仮説」
「作業仮説」というSFもどきを書いた - Shironetsu Blog
を読んでほしい。)

(内容に疑わしい点も多い。指摘、感想等あればコメントでください。)

燠火(前半)

 目覚めた私が捉えたのは2πラジアンの視野だった――4πステラジアンではなく。そのうち半分よりいくらか少ない領域はいくらか眩しさを感じる赤い光の線が占め、もう半分にはわずかに赤みがかったり青みがかったりしている弱く白い光点が所々に混ざった暗い線が見える。注意すれば、赤い光の線と黒い線のぼやけた2つの境界の一方から小さい光点が現れ、もう一方には同じ速さで消えていくのが分かる。私はそのゆっくりとした流れにオルゴールのホイールを想起しながら、夢の続きの場面のようなこの光景を理解することを始めた。


 夢の中で展開されるのと同じ、目に見えたものを都合よく理解しようとする論理が働き、私はそれを自分が2次元の世界にいることの自然な結果だと理由付けして納得した。あるいはまだ夢の中なのかもしれない。しかし、意識がはっきりとしてくるにつれ、視界に入るものの異常さを認識するだけの常識と自分の置かれた状況を検討するための材料を記憶の中から集める能力を取り戻していった。夢なら視界が明瞭すぎる。目に見えるものについて判断する前に理解が訪れる夢の感覚は無かった。当然陥るべき狂乱状態を経過することなく自らの身に起こったことの分析を始めた冷静さ、あるいは鈍さにはむしろ混乱させられた。だがすぐにその理由に思い至った。この世界、2+1次元宇宙へと私は来るべくして来たのだ。

 眠りに着く前の記憶は鮮明だった。私は一般次元の磁気双極子同士の相互作用の計算に悪戦苦闘していたのだ。

 3+1次元において、磁気双極子は軸性ベクトル量と対応させれば電気双極子が作る電場と同じ形の磁場を作る。これに加え、電場の応力テンソルと磁場の応力テンソルも同じ形になることから、磁気双極子同士に働く引力・斥力は電気双極子同士のそれと同じ形に表せることが分かる。すなわち磁気双極子は、その相互作用について、絶対値が等しく異符号の"磁荷"が両端に付いたダンベルと等価になるのだ――ただし"磁荷"間の引力がクーロンの法則に従うとして。

 より一般のn+1次元ではそううまくはいかない。磁場は2階の反対称テンソルとしてn(n-1)/2個の独立成分を持ち、磁気双極子も同じく2階の反対称テンソルと同じように振舞う。3+1次元でうまくいくのは、空間の体積形式を介した双対によって2階反対称テンソルとベクトルとの間に一対一の対応関係――ただし空間の向き付けに依存する――が存在するからだ。これは平面とその垂線との一対一関係があることと同じ事情によると言える。

 私が試みたのは、もっとも単純な状況として、2次元平面の定常的な円電流の作る磁気双極子モーメント同士の相互作用を計算することだった。それには2つの間に挟まれたn-1次元超平面の各点の応力を足し合わせればよい。ちょうど3次元と同じように。ところが手順は正しいに違いないのにガンマ関数やベータ関数が次々と現れる積分計算を経て得た答えはnに3を代入したとき3次元の場合と整合しなかった。計算過程を点検しても間違いは見つけられなかった……というか乱雑に書き散らしたためにその作業は意味を成さなかった。

 心が折れた私は布団を被った。人間が一日に取り組むことのできる積分の回数はその体力による。目が覚めて気力が回復していたら自分に一からやり直しさせよう。

だがそもそも「向かい合わせ」の双極子間の引力、斥力を計算したところでその相互作用の定性的な理解には遠く及ばないのだ。一般次元の「磁石」間に働く力を理解する術を探しながら私は眠りについた。

ところでこの過程では意図的に2次元の場合が除外されていた。「一般次元」と称しながら、である。ポテンシャルが対数になることや成分が少なくなることからくる例外的な扱いを後回しにしていたのだ。

そして目覚めたのがこの2次元空間だった。誰が私をぺちゃんこにしたのだろう?多分私は2次元への軽視によって2次元世界を尊ぶ何者かの怒りを買ったのだ。その〈圧搾者〉はこのフラットランドへ閉じ込めることで私を改心させることを目指しているのだろう。

私はいくらか催眠効果を持っていそうな光点のゆったりとした流れを眺めながらそこまでの推論を進めた。自分が嫌っているはずの、根拠の薄い悟りを土台にした論理展開に自嘲的な気分になったが、突然2次元に押し潰されて無事でいることに比べれば遥かに許しやすい荒唐無稽さだった。

 そろそろこの世界と向き合わねばならない。〈圧搾者〉はどういう技術によってか、私の精神に破壊的なダメージを与えることなく2次元のこの肉体に転写していた。削ぎ落とされたであろう無数の器官と同時に省略された神経の不在による異常は今のところ感じられなかった。残された神経はいくらか簡略化されているとは言えそれを平面に転写することは可能だろうか?ひょっとするとそんなことはせず精神は3次元に取り残されているのかもしれない。だとすればこの体も、2次元空間内に埋め込んで全てを完結させるという手の込んだパズルなどせずに、「外部」の空間に飛び出した部品をつぎはぎして集めた塊にすぎないのかも――あるいはもっと単純に全てが表面だけの見せかけでありさえするかも――しれない。しかし私はそうは信じられなかった。これは「現実」だ――あらゆる細部にわたって自己完結した法則に基づいて動いているという意味で。この世界に対して、破綻をきたすことなく整合性を保証するためにあてがわれるもっとも単純な方法としての数学的仕組みとして物理法則が働いていると考えるのは決して間の抜けた妄想ではないだろう。その確信は〈圧搾者〉が力ずくの方法として脳を薬漬けにしたことによるものでもありえた。だがもしそうなら、2次元を尊重させるために嘘の舞台と心理への直接の干渉のどっちつかずの方法を取ることにどれだけ意味があるか?いずれにせよ確信とそれを支える感情は自己肯定的だった。何一つとして信用に足りる証拠を自分に示すことはできなかった。しかしこれ以上の疑いで、この世界を解釈するためのもっとも簡単な道具を自分から奪うつもりにもなれなかった。

 2次元への単なる埋め込み以上におそろしささえ感じる巧妙な技術は、この2次元の肉体への神経の調整と適合にあった。視覚は2πラジアンの視野を、もともとそうであったかのように自然に処理していた。ただし3次元的視野も忘れることなく。

 少し力を入れると4本の「腕」が動くのが視野に入った。それは気味が悪く驚きをもたらす体験であったには違いないが、半ば諦めのようなものを感じながらすぐに受け入れる他なかった。付いていたのは4本ともほとんど同じ形状、大きさの、わずかに透き通った肌色を帯びる鰭のようなものだった。いや、鰭と言えるかどうかは分からない。少なくとも、1次元的情報から奥行きを捉える感覚――3次元人の立体視の対応物――はその一本線を、鋭角二等辺三角形の辺を膨らませた形に認識した。
この鰭の生える部位に眼は付いているはずが無いから、人間が2つの目からの情報を統合するのと同様の方法で隙間は埋められているはずだ。五感の他の感覚由来の情報は、眼の周囲にこれらの感覚器が備わっているとしても今は感じられなかった。鰭はおそらく胴と同じかそれ以上の長さに渡って延びていたが、力を入れても互いに触れさせることはならず、触覚についても分からない。自分の体のうち見ることができるのはこの4つの鰭だけだった。

 ここまで徹底的な神経の再配線が施されていることが明らかであれば、自らの連続性についての確信は揺らいで当然のはずだった。脳をかき混ぜられたと信じているのに自分の過去への信用を喪失しないのは矛盾している。だがまたしても混乱は訪れず、新しい肉体への理解は自分を再発見する作業であるかのように淡々と進んでいった。

 私はここまでで知ったことから自分の姿として4本の鰭の生えた円盤を想像した。鰭を不器用にじたばたと左右に反らす憐れな円盤だ。ちらっとミズクラゲを連想したが、すぐに思いなおした。
この2次元世界においてこの形態はもっとも厚みのある姿だ。「平ら」に思われるのは、存在しない"z軸"方向から3次元的な視点で想像しているからに過ぎない。その仮想の"z軸"、いわば真横の方向から見れば内臓まで全て見えるだろう。ただし管状構造は存在しないはずだ。そういう意味ではやはりクラゲに近いのかもしれない。それ以前に、消化器の存在や代謝の仕組みの有無など、この肉体がこの世界で生存可能なつくりになっていることへも疑いを向けなければならない。何を食べればいいというのだ?

 眼は少なくともその鰭同士の間に4つは配置されているはずだがもっと多いかもしれない。その眼から延びる神経のつながりについては何も分からない。交叉は最小限にとどめられているには違いないが全く無いというわけにはいかないだろう。直線的な電気的信号伝達とは異なる、例えば複数種の化学物質の濃度勾配を積極的に利用するような巧妙な仕組みが存在しているのかもしれない。

 その眼によって再び周囲に注意を向けると、光点は変わりなく流れ続けていた。〈圧搾者〉はこの憐れなクラゲに、親切心からか、3次元の類似物への連想につながりやすい色覚を備えさせていた。視界の半分に広がるのは「天球」、暗闇を背景とした光点はその一つ一つが星なのだ。その色が恒星の表面温度に対応するものなのか、可視光のスペクトルと色の関係までは分からない。しかし少なくともそのどれもが見慣れた星の色だった。暗闇が黒くある必然性さえ無いのだから、この類似は恣意的なものであったが、周囲の理解の簡単化には大きく貢献していた。

 ではもう半分に広がる赤い光は何か?間違いない――太陽だ。この赤さが「本物」かどうかは分からない。しかし〈圧搾者〉がもしこの色付けに意味を与えているならきっとヘルツシュプルング・ラッセル図の右側、天球に輝く白い星より穏やかに「燃えて」いることを示しているのだろう。この炭火のような光に絶え間なく片面を焼かれて無事でいられる肉体は一体何でできているのか、考えを進めようとしたところで諦めた。全てに対応関係が付くわけではないだろう。

 つまり、今の私は太陽の軌道上を衛星、いや、「惑星」として自由落下しているのだ。太陽の見え方にほとんど変わりは無い。角運動量の保存則に従って円軌道を描き続ける無力な質点だ。

私はここで電磁波を自明視していることに気付いた。2+1次元時空での電磁場を公平に扱うことこそプレスされた原因なのだった。手始めに一般次元のマクスウェル方程式を思い描いた――
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順にガウスの法則、磁荷の非存在、ファラデーの電磁誘導の法則、アンペール-マクスウェルの法則と、3+1次元で呼ばれるものに相当する。独立な式の数は1+nC3+nC2+n個だ。

2+1次元を例外的なものにするのはまず磁場の成分の数だといえる。n+1次元においてその独立成分の数がn(n-1)/2個になるため、2次元ではたった1成分のみ、すなわち磁場は"擬"スカラーになる。1,2成分をBで表せば,マクスウェル方程式
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とたった4つの式からなることになる。磁荷の非存在に相当する式はなくなる。

再び一般次元を考えると、簡単な式変形から、波動方程式
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を得る.

――私は赤い光を浴びながら、戯れにシュテファン-ボルツマンの法則を導出することを試みた。――

 エネルギー密度、ポインティングベクトル、マクスウェル応力テンソルはそれぞれ
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であり、電磁場が持つ等方的な圧力Pは、応力テンソルのトレースから
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となるべきものである。――ここでn=3においては直ちにP=u/3が得られること、n=2では電場の、n=4では磁場の応力テンソルのトレースが0となることに気付いた。これが3次元の特殊性の1つと
言えるものであるのは確かだが3次元を有利にしているものでありえるだろうか?――電磁ポテンシャルを介して自由電磁場の波動方程式を解けば、エネルギー密度のうち電場と磁場の担うものが相等しくなることが3次元と同様に分かる。ここから、電磁波の状態方程式として
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を得る。後は熱力学の問題だ。uが温度Tのみの関数であるという仮定の下で
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と、エネルギーが温度の(n+1)乗に比例することが分かる。――2次元なら温度の3乗だ。しかしそれを知ったところでこの太陽について分かることは何もない。放射強度、比例定数、半径、必要な数値はどれもこの体では到底得られそうにない。もっとも、得る必要もないからこれ以上考えるのはやめた。

 この結果を導いて満足した段になって私は数式の変形がとんとんと進んだことにようやく気付いた。紙と鉛筆と手を奪ったことへのささやかな補償として強化が施されたのだろうか?それよりは彼らが計算によってこの世界を理解することを重視したために憐れな脳を改造したという見方のほうが、もっともらしかった。困惑することに、私を一番動揺させたのは注意を向けるまで気付かずにいたこの内部の変化だった。眠りにつく前の自分との連続性への確信が揺るぐほど私は哲学に浸るつもりはなかったが、〈圧搾者〉が頭の中で複雑に入り組んでいるに違いない機能とその周辺に傷を付けずにこの変化をもたらしたと能天気に考えるのは難しいことだった。とは言え、配線の方法への不信を上回る魅力的な贈り物であることは認めざるを得ず、疑いは単に自分が正気を保って屈服しきったわけではないことを確認するための防衛的な心理であったのかもしれない。

 どこまでできるか試すべく、計算の対象を探そうと再び周囲を眺めた私の眼が捉えたのはこの世界に来て初めて認めた影だった。「下」側――上下を意識することに近い感覚はあったが、きっとこの状況では胃があれば吐き気を引き起こしたに違いない人間の平衡感覚とはまた違ったものだった――、太陽の上の黒い点だ。多分気付いていなかっただけでしばらく前から見える位置にあったのだろう。私は初めそれを目印に太陽の自転を測れることを期待したが、また新たに気付いた遠近の感覚がその距離がもっと近いものであることを告げた――あれは私と同じ「惑星」だ。

 正体不明の物体に近づくことへの恐れを脇に追いやった私は、その方向へ近付いていく方法を考えはじめ、この鰭は役に立つものだろうかと思案しつつ眺めた。既に気付いていたことだがこの高度に大気はない。あったとしてもこの鰭に抵抗を与えられないほど希薄だ。代替案として、この鰭がもし太陽帆なら光圧から運動量を得られることを思いついた私はどの角度なら望んだ方向に進めるか鰭を動かして頭を悩ませる一方で目標を睨んだ。加速に気付いたのはそのすぐ後だった。向かっているのは正しく目標の方向だ。鰭が太陽帆としての役に立った?違う、目標方向の反対側に引かれるのを感じながら私は思いなおした。それなら今まで鰭を動かしたときにも加速は感じたはずだ。別の何かが体内で働いていた。

 自転車を見たこともないのにサドルにまたがってすぐに運転できたかのような感覚を味わいながら、半ば無意識的な操舵で体が動くのに任せて私は軌道上の物体のランデブーをモデル化したヒルの方程式を思い出した。――
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原点は円運動する目標物体、xは動径方向にとった軸、yは角度方向の軸を意味する。ωは目標物体の角速度だ。x方向に進めば遠心力がより引き離す方向へ働き、速度を出せば進行方向右手にコリオリ力が加わる。今見えている惑星を目指してまっすぐ進めば、余分な角運動量がその手前方向に軌道を逸らすことになるのだ。しかし軌道力学を知っていようと必ず犯すであろう失敗を回避する本能が
この体には組み込まれていたようだった。目標への接近は着々と進む。自ら身につけた技量ではないとはいえ、全自動のプログラムに任せきるよりはいくらか操縦の感覚があるこの体験を楽しんだ。

 kが4未満ならα=√(4-k)として、力fがかからない状況で解として
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を持つ。k=3にz方向の単振動を加えればCW解として知られる解になる。

 問題はkだった。kは中心力;重力の距離との依存性を表す量だ。kが4を超えればわずかな摂動が指数関数的な落下か離脱を引き起こす。こうして安定的にのんきに回り続けてきた以上、kが4未満であることは確かだ。フラックスのアナロジーから、その値はn次元においてnになる――逆(n-1)乗則――のが確からしいが、根拠に欠ける。ポアソン方程式を考えることが必要だった。

ここに至って2次元の重力の特殊性を思い出したが(私に測地線を辿らせてきたこの重力は何が源だ?)、いつの間にか視直径が数度に膨れていた、ストーブの前に置かれているかのように赤く照らされた目標の姿を片側の眼で認めたことによる驚きがそれをかき消した。光沢のある線とその間に挟まれて並んだ暗い破線、所々に見えるやや明るい点――ゆっくりと回転するその輪郭を、2次元遠近感覚は中心の膨らんだ4つの刃を持つ手裏剣として翻訳した。私は同類に出会ったのだ。

(「燠火」(前編)終)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF)

金属があることから

 先日の記事で
「これを記した筆者は重力理論の検証を兼ねた宇宙開発を目指している。しかしこの星には鉱物資源が無いため苦労することになるかもしれない。」
と書いた。
「作業仮説」スポイラー補足解説 - Shironetsu Blog

 当初はこのネタをもっと膨らませようと思っていた。
 人間の文明の成立にとって金属が必要不可欠であったことは言うまでもない。しかし、もし金属が使えない天体に知的生命が生まれたら?なかなかに絶望的であることは確か。高度な機械は作れない。医療を発達させられない。普通の方法ではコンピュータを作れない。そんな環境で宇宙進出は望めるだろうか?知性を強化させたり精神の電子化へ進む術はあるか?

 ところで、この宇宙の恒星は世代によって分けられる。大雑把には種族Iが我々の太陽を含む新しい星で、過去に存在した恒星による元素合成で重元素を含み、その惑星は地球のように(過去の超新星爆発などによって)色々な元素を持てる。種族IIは古い星で、軽い元素で構成される。*1

 種族IIの星は惑星を持ちにくいらしいが、この宇宙でも現実に重元素に乏しい天体は存在するためそういう問題は起こりうる(あるいは起こりえた)と思う。もっと身近に、カール・セーガン的ガス惑星生物*2が知性を持てたとして、彼らが自力で肉体に束縛された運命から逃れる術を手に入れられるだろうか。

 好ましい性質をもつ有機物の素材を合成する生物を品種改良で生み出すという生物工学的な手段や、自らの進化という気が遠くなる"優生学的"方法によっていくつかの問題を解決したり、長大な種族的計画を立てて金属が合成されるまで耐え忍んだり、SFとしてそういう可能性を考えるのは面白そう。

 話を戻すと、この話でそういうことに踏み込むのをあきらめたのは、重力的な振る舞いがこの宇宙と大きく異なる天体での元素合成や「第二世代以降」の天体の形成の問題を考えるための知識が全く無かったため(他の点についてはその知識が足りているのかというとそんなことはないが……)。『ディアスポラ』でも触れられていることだが多分ブラックホールだらけになる。そういうわけで金属の問題についてはあまり立ち入らないことにした。

────────────

 こういうありえた可能性について考えるにつけ、人間原理的な「後付け」であるとはいえ、この宇宙とこの惑星が好ましい性質を持っていてよかった、とほっとする。

 知性が発現するだけでは足りない。金属が無ければその先に進めない。知能はあるのに金属が足りない、という悲劇的な状況に立たされることなく済んだことにありがたみを感じねば……。

 とここまで来ると人間にも何かしら「それ以上はどうしても先に進めなくなる」というような軛が別に存在しているのではないかと未知の可能性に不安にもなる。そういった「どうしようもない困難」に気付いてしまう日は来るだろうか。

*1:「第一世代星」である種族IIIというのもあるらしい。

*2:『コスモス』などで木星の気球型生物やそれを狩る生物の可能性が考案されている。アーサー・クラークの短編「メデューサとの出会い」はこのアイデアを受けたもの。『2010年宇宙の旅』では同様の生物がモノリスに見切りをつけられてしまい、エウロパ生物の繁栄のために、第二の太陽の中にくべられることになる。

一般次元のマクスウェル方程式と重力のこと

n+1次元マクスウェル方程式

 「作業仮説」の中でフルルッデに重力理論としてのマクスウェル方程式を導かせた。
shironetsu.hatenadiary.com
 しかし、

  • ローレンツ力を電磁場テンソルの(n+1)元速度の内部積として定義したこと。
  • 同符号間に引力が働くとしたこと。
  • その他通常の記号・術語を用いていないこと。

などそのまま使うには不便なことも多いため改めて簡単にまとめた。
n_dimensional_maxwell.pdf(n_dimensional_maxwell.pdf) ダウンロード | 自由研究のアップローダー | uploader.jp
(リンク先「自由研究のアップローダー」からダウンロード)

 不安な点としては波動方程式の問題がある。
 電磁ポテンシャルと電流電荷密度の関係を共変微分で書いたときに現れるリッチテンソルは局所ローレンツ系で打ち消せる。というのも、偏微分で書いたとき計量の2階以上の微分は出てこないから(正直こっちもあやふやなのだが)。
 しかし電磁場の波動方程式を導くとき計量の2階微分が出てきてしまう気がする。電磁波といえば、等価原理の思考実験で使われるものでもあるしその効果は消えてくれたほうがいい気がするのだけれどよく分からない。

 とりあえずミンコフスキー空間ローレンツ計量の入った平坦な時空)に関しては問題が無いのでこれを使ってフラットランドのことなども考えたい。

重力のこと

 『白熱光』の面白さの一つに、普通の天体観測を経験せずに重力の法則を見つけなくてはならないことがある。

 人間の歴史では、有史以来脈々と続いてきた天体観測技術が実らせた一つの成果として、ケプラーの三法則を通してニュートンによる万有引力の法則の発見が位置づけられる*1

 空間次元が4以上の宇宙の人々にとっての重力の問題の難しさは、まず、2つの天体が重力的に安定した軌道を持つことができないため、惑星が恒星の周りを公転することができず、したがって他の惑星という重力の発見にとって重要な観測対象が存在しないことにある。

 しかしそれは薄い大気の層を持つ天体の地表に住む人々にとっての話で、厚く不透過の気体液体層の下で泳ぐ人々や穴居人は星を知ることすらない。それどころか、物体が抵抗無く落ちることがないうえ、常に浮力を受けるため落体の法則すら見つけることには苦労するはず。

 エトベシュの実験はおろか、ピサの斜塔での実験すらできないような環境で等価原理は自明視できない。そこに住む人々が慣性質量と重力質量を別の概念に分けることの正当性はそれなりに強くなるはずで、そうなると重力理論に対してマクスウェルの方程式を立てることの問題点はどこにあるか?という疑問を「作業仮説」には含めたつもり。一応負のエネルギー密度が出てくることが一つの困難にはなるようだが……。

 重力の理論に対して等価原理以外の理由でマクスウェルの方程式が諦められた歴史的経緯についてちゃんと調べなくてはならないらしい。

*1:通俗的理解しか持ち合わせていない……。ケプラーの法則を発見できるほどの精密な観測に使われた技術には興味もある。

「作業仮説」スポイラー補足解説

「もし私たちが水中にしか棲めないお魚であったならば、どんなに脳味噌が発達していたとしても、このような基礎物理法則に到達することはできなかったであろう。」
(横山順一『電磁気学』(講談社))

 1年冬学期の電磁気の授業で使われた教科書に書かれていたマクスウェル方程式についての言葉。兼ねてよりマクスウェル方程式の一般次元化には興味をもって取り組んでいたが、この一文を読んで「水中」(誘電率の高い液体に満たされた空間)に棲む知的生命に電磁気学を「発見」させようという動機が生じた。しかし、半ば「演繹」のような形で方程式を見つけさせようとするとその自然さが必要になる。どうすれば液体の中に棲む知的生命に発見させられるだろう。

 グレッグ・イーガン『白熱光』ではロイ達は電磁気学を知らないまま一般相対論に
辿りついて危機を乗り越える。その過程には必然性がある。

 同じくイーガン『ディアスポラ』には5+1次元宇宙「マクロ球」U*の天体ポアンカレでのヤドカリとの邂逅というとてもわくわくする章がある。

 これらの作品へのリスペクトを込め、7+1次元宇宙(ちょっと多い)の「泥油」という液体の分厚い層の底近くに住む知的生命が数学知識を持て余してマクスウェル方程式と同じものを得てしまうという過程を描くことにした。ちなみに7次元空間はベクトル外積が存在する最大の次元である。

「作業仮説」
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(リンク先ダウンローダーからダウンロード)

以下ざっくりとした補足的説明。

「作業仮説」補足

1章 種族

〈大綱〉は個体を結ぶネットワーク。多分「中国電話」みたいなことになっている。

 クラーク『2010年宇宙の旅』などに知性の発現への火の利用の寄与についての説明がある。しかし液体中が舞台ではそれは使えない。そこで農業という営みに知性の発現を託すことにした。しかしこちらも単に農業に従事するだけでは知能の獲得を望めないことはハキリアリの例などから想像できる。「クリスタルの夜」(『プランク・ダイヴ』所収)でも作物の生育プロセスを複雑なものにしてファイター達の知能の発達を促した箇所がある。

 そういうわけで種族の高度な知能を説明するためにわざわざ〈大綱〉という設定を用意した。全体的なネットワークからトップダウン的に個体の知能の発達が進んだという設定……そんなことが可能かどうかはともかく一応これで「説明」したつもり。

2章 世界

 7+1次元宇宙であること。巨大なガス惑星か褐色矮星の7+1次元宇宙での類似物の液体層に棲む。

3章 時間

 ニュートン力学運動方程式を計量を使って書こうとすると困ること。
回転系の慣性力の再現についてはちゃんと書くべきかもしれない。

4章 順序

 特殊相対論を因果関係が半順序であることから導くこと。

  • 呼宇=光(電磁波) s=c

彼らは電磁波を知らない。イルカのような反響定位だけで物を「見て」いる。エコーとかけてこの種族を「泳耕族」と呼ぶ。後半はローレンツ変換のまわりくどい導出。
 
 この章の内容自体は半年近く前に書いたものだがここに組み込んだ。

5章 軌道

測地線の方程式で質点の運動を記述できること。相対論的力学と力の概念。

6章 流体

後の章でエネルギー運動量テンソルを用いるためだけの導入。正直かなりあやしい。

〈竹〉は何らかの熱機関。熱力学的考察はちゃんとやっていない。

7章 引力

ざっくり言うと、偶然マクスウェル方程式を見つけてしまったが重力場の方程式と勘違いする話。このSFもどきを書いた最大の目的。

 「微分形式のマクスウェル方程式」というのを本でよく見るが、なぜそれでうまく行くのかという点の説明はあまり見ない。一般次元の幾何学という観点から、「一般座標系のマクスウェル方程式」を半ば演繹的にいきなり導く過程で今はその自然さが明らかになったと信じている。*1


 これについて考え始めた当初、逆(n-1)乗則は基本原理として採用すべきではないかと考えていたがそれすら結局どちらかというと導かれる側のほうだった。ゆえにクーロン定数よりも真空の誘電率(というか光速の2乗を真空の透磁率で割ったもの)のほうが基本的な定数として先に現れる。歴史的経過によって厄介なことになっている電磁気の単位系の問題もこうして整理するとすっきりはず。

この前の章でもそうだったのだが、人名のついた法則や定理についてはそれを出すことは避けなくてはならなかった。そのためややヘンな用語が出てくる。

ホッジ分解のようなことをしているが不定値計量なのでリーマン幾何の諸定理を使えない。ここが一番不安な箇所。Πが磁荷のある場合のもう一つのポテンシャルということになるがどうだろう……。

注意すべきことは、ローレンツ力として「場の強さの速度による内部積」を採用したため電磁場テンソルの符号が通常の定義と逆になっていること。そのため真空の透磁率の対応物χが正なのに同符号間で引力が発生する。以降の磁場テンソルの符号が普通とは逆になっていておかしいと感じられるかもしれない。電場については通常の定義に合わせたため少しこじれた。

 なお、以降の説明でもそうなのだが、2次元の場合については例外的扱いが必要なため述べなかった。

8章 符号

 「筆者」が電磁場について(そうとは知らずに)空想するところ。
歴史的にも重力の理論の難しさはエネルギー密度が負値をとるところにあったらしい。

9章 曲率

 一般相対論。重力場の方程式を探そうとするのではなく、計量の方程式を探そうとしたら偶然見つかった……という設定。幾何学の言葉で書けず、「古典的」テンソル解析になってしまったのが心残り。

なお、この章の内容は 太田浩一『マクスウェル理論の基礎 相対論と電磁気学』(東大出版)によるところが大きい。

 アインシュタイン方程式マクスウェル方程式の類似についても最後に書いた。物質場との関係を思い切ってイコールで結ぶところが似ている。「磁荷」を諦めることにも宇宙項を捨てることに近いものがある気がした。

 「輻転場の理論を接続係数に組み込む」というのはカルツァ-クライン理論のこと。余剰次元の考え方を切り拓いた仮説らしいがよく知らない。

 白状するとアインシュタインの方程式はやっと式の意味が理解できた程度で堂々と書けるほどの理解が無い。しかしこの類似点についてはどうしても書きたかった。

 線形近似で等方座標系のシュバルツシルト解の近似が出てくるようだがさすがにそこまでは書くのがためらわれた。「鉛荷あり」と回転質量でカー・ニューマン解の近似解も得られる気がするので、もっと理解したらちゃんと計算したい。

10章 方向

 僕の好きな「逆3乗以上の中心力下の運動は安定しない」ことの大雑把な説明。『ディアスポラ』でもパオロの説明でオーランドが理解する印象的な場面がある。
これのために泳耕族は太陽の無い世界で生きることになる。ただしこの世界が熱力学的に可能なのかどうかはほとんど検証していない。SF的な恒星上の生物とガス惑星生物の中間みたいな?

 これを記した筆者は重力理論の検証を兼ねた宇宙開発を目指している。しかしこの星には鉱物資源が無いため苦労することになるかもしれない。


低次元

この分野の常として(?)独特の現象が現れるのは低次元のほう。
「作業計画」では触れなかった内容だが、以下軽く述べる。

2+1次元について

上でも触れたが2+1次元は例外的な扱いが必要なためわざわざ説明しなかった。グリーン関数対数になったりしてちょっと厄介。しかし興味深い現象も多く、特に重力理論は最先端で行われているらしい。

・2+1次元電磁気

A・K・デュードニー『プラニバース』(工作舎)で2次元の電磁気について試みられている部分がある。フルルッデの理論を使えば2次元電磁気学も構成できる。特筆すべき現象は、電荷の回転が「右回り」と「左回り」しか無いこと。重い正電荷の周りを軽い負電荷が回るとする。この「原子」は右回りと左回りで磁気単極子であるかのように振舞うことになる…はず。となると原子同士が引き合って化学がより複雑になるかも?

 無限に長い電流の周りの磁場が発散してしまうため、3次元のように平行な電流間の力を電流の単位(アンペア)に使えなくなる、というのはちょっとおもしろい。
(15/08/31追記)
 ここは嘘だった。2次元では電流のないところで磁場は変化しない。つまり閉じた電流は外部に磁場を作らず、回転する電荷同士は磁気的な相互作用を持たない。このあたりの事情については「燠火」にも書いた。
燠火(解説) - Shironetsu Blog

 無限に長い電流Iの作る磁場については少し悩ましいところもあるが、多分右側にμ0I/2、左側に-μ0I/2の均一な磁場ができるのではないかと思う。となるとIA、IBの平行電流は単位長さあたりμ0IAIB/2の力で引き合うことになり(反平行なら反発)、我々の単位系と同じように電磁気の単位を決められることになる。

・2+1次元重力

2+1次元重力は距離に逆比例……しない
ヤザンカの計算から出てきたポアソン方程式に(n-2)の因子が出てくることから分かるとおり静的重力は存在しない。しかし宇宙項を加えたりいろいろいじると「BTZブラックホール」なるものが現れたりするらしくホットな研究分野らしい。

ちなみに「平坦」を連呼するのはエドウィン・アボット『フラットランド』を少し意識してのことだったが特に意味が無かった。

3+1次元について

 よくある誤解にマクスウェル方程式による電磁気の法則は3次元でしか成り立たない、
というものがある。しかしこれはフレミングの法則に騙されているだけなのである。

 磁場は本来ベクトル場ではなく反対称2階テンソルである。だが3次元空間ではその双対をとることで”軸性”ベクトルとして扱えるようになる。もちろんこれはありがたいことで、視覚的イメージが簡単になるといった恩恵もあるがこれによってマクスウェル方程式が3次元固有のものに見えてしまう弊害が起こる。

 ただ作中では保留した可能性だが「磁荷」(一般には3階反対称テンソル)は3+1次元ではその双対が容易に電流電荷密度と同じになって保存則と結びつく。これは3+1次元固有の性質。

 「磁荷あり」マクスウェル方程式はフルルッデが考えた可能性の線でいけるはずなので別の機会にちゃんと扱いたい。

 そもそも当初の目的が「磁荷あり」の一般次元のマクスウェル方程式を考えることだったのだが、幾何学的な意味の分かりにくさから保留することにした。ただ、「ダイオン」(磁荷と電荷を持つ仮想上の質点)の受ける力を加えることによって電磁場のエネルギー運動量テンソルはそのままに保てることを考慮すると一般次元でももっと正当化できるかもしれない。

計量

 作中では触れなかったが、計量の符号を変えることも比較的容易い。しかし「事象の順序」についての考察が使えなくなるためその点での難しさはある。ただし慣性系の概念を表現するためには時空の計量を導入するのが手っ取り早いので、そういう動機から泳耕族も不定値計量を考える前に考察していたかもしれない。

 今年12月に新☆ハヤカワ・SF・シリーズから刊行されるグレッグ・イーガンの『クロックワーク・ロケット』の「Orthogonal三部作」では計量が正定値の(リーマン計量の!)宇宙が描かれるらしい。まだ全く読んでいないが、今から楽しみ(早く原著で読むべきところかもしれないが…)。

 リーマン計量であればリーマン幾何学の諸定理を使うことができる。時空多様体微分形式である電磁場から宇宙の大域的性質、トポロジー的な性質について分かることがあるかも?(そもそも微分形式はそのためのツールとして多様体の本で導入されるらしい)

 「作業仮説」でその点に触れなかったのは(最大の理由は単に位相幾何分野を全く勉強していないからだが)不定値計量多様体の大域的性質というのは研究の現場でさえホットな分野らしいため。

 先にも述べたがホッジの分解定理は計量の正定値性によっているため不定値計量ではそのまま使えない。ヘルムホルツの分解定理の一般化のようだが、果たして不定値計量で同じようなことをするのがどの程度正当化されるのか……。ここの宇宙(3+1次元宇宙)では電磁場テンソルは閉形式であることが実験的に確かめられているが、フルルッデは電磁場テンソルの分解によって余閉形式成分が入ると磁荷(のようなもの)を導入せねばならず複雑になるから、という理由で電磁場テンソルの類似物が閉形式であると仮定する。ちゃんと多様体の基礎理論を知ったうえでここを何とかしたい。

妄言

ニュートン力学で回転系を扱ったときからずっと「マッハの原理」が気がかりになっている。一般相対論で説明された、という言葉と依然きちんと解明されていないという言葉をどちらも見るが…。ローレンツ力と回転系の慣性力の類似から、捩率的なものが慣性系を決めて銀河の回転曲線問題にも踏み込めるかも!?などと妄想したが勘違いっぽさが酷いためとりあえずやめた。

拙い内容だがご意見ご感想いただけたらとてもありがたい。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

*1:6/15追記 新しい記事でも述べたことだが、これはそのまま「重力場中のマクスウェル方程式」として重力場中の電磁気の法則の記述になっている。 一般次元のマクスウェル方程式と重力のこと - Shironetsu Blog 「最小の書き換えで一般共変性を持たせる」という原理に従って特殊相対論での電磁場テンソルを用いたマクスウェル方程式を変更すると共変微分が出てくることにになるが、その実態は外微分であるため実は必要無い。つまりマクスウェル方程式自体に接続は要らない。この意味を答える力が今の自分には無く悔しい…。ただ、電磁波という伝播現象になると接続が必要になってくるように思われるがどうだろう。あまりいい加減なことを言うと自分でも不安になるからもっと詳しくなってから幾何的意味に突っ込んで考えたい。