クロックワーク・ロケットをとばす
グレッグ・イーガン『クロックワーク・ロケット』を考える記事(ネタバレ含む)
「山のどれくらいが太陽石だと考えているの?」ヤルダは訊いた。
「質量でたぶん三分の二」
ヤルダは背中を使ってすばやくいくつかの計算をした。
「それは四空間での四分の一回転の一回分にはじゅうぶんそうだけれど、旅の全体分をまかなえる見こみはまったくないわ」
(p.246)
〈孤絶山〉をロケットとして打ち上げ無限の速度――母星に対して――まで加速して必要なだけの時間を得ること、それがエウセビオの計画だった。世界消失の危機に際してヤルダにこの途方もない解決策を提案する場面は1巻の折り返し点でもあり読んでいてじいんとした。できたばかりの「回転物理学」を使って種族を救う!工学者としての実現可能性にまでしっかりと言及しているからこその力強さだ。よく使われるフレーズではあるが、「ハードSFならではの感動」がここにあるだろう。
さて、上の引用はその提案のちょっと後に続くヤルダとエウセビオの会話である。「四分の一回転」とは無限の速度まで加速することだが、〈孤絶山〉の三分の二を占めるという太陽石の量がこれに十分であることをヤルダはどのようにして出したのだろうか?回転物理学を使ってこれについて考えてみる。
……前に一つずつの問題に際して馴染みのある私たちの宇宙でのロケットの加速について述べる。こっちのほうが簡単なので。
注意として、以下しばらくこっちの宇宙での光速をc、ヤルダたちの宇宙の青い光の速さをbとして区別することにする。両者は本質的に同じものだが、分かりやすいようにするため。
ツィオルコフスキーの式
ロケットの加速と質量の関係はニュートン力学の範囲では、つまり相対論を無視できる速度のときはどちらの宇宙でも次の簡単な式で表せる。
ΔVが加速、wが推進剤の噴射速度、M0が加速前の質量、Mが加速後の質量である。
証明は質量保存と運動量保存から。
参照:ツィオルコフスキーの公式 - Wikipedia
加速を大きくするには推進剤の噴射速度を大きくすること、加速後の質量を小さくする=燃料積載量を大きくすることが必要になる。相対論・回転物理学でも基本は同じだが、光速に近づくにつれそれぞれその振る舞いは変わっていく。
〈孤絶〉を回転させるための山肌へのエンジン用の穴の掘削中に、ヤルダが荒石を詰めた袋ごとカタパルトで投射されて漂流する場面があった。*1衝動的に投げ出してしまわず冷静に分析するヤルダに科学者としての賢明さを感じて惚れ惚れとするが、ここで彼女が考えたのはwをいかに大きくするか、ということだった。必要なΔVは孤絶から離れていくより大きな速度。体に蓄えられた化学エネルギーを限界まで活用するため、全力で投げられるだけの小さい石片ごとに投げることで解決しようとしたのだった。
座標変換
特殊相対論では、S系(ct, x)に対して速度vで動く点が静止しているように観測されるS'系(ct', x')への座標変換は、座標原点を一致させてかつ空間回転は無いものとすると次のように行列を使って表される。
一方、回転物理ではS系(bt, x)からS'系(bt', x')への変換は
のようになる。ローレンツ変換に対してウィック回転の考え方を使ってtをitに、vをivに置き換えると簡単に得られるが、素朴に計量が形を変えないこと(つまり直交行列になること)と変換の相対性から導くこともできるだろう。ややごちゃごちゃした見た目だが、座標軸の原点を中心にした回転をパラメータvで表しただけ。vに平行なxの成分をx∥、垂直な成分をx⊥とすると、
と分かりやすく表せる。
4次元空間での座標変換を表してみたが、専ら直線的な運動を扱うためよく見る2×2行列による変換で充分だろう
私たちの宇宙
ヤルダたちの宇宙
ここから相対論的な(あるいは回転物理の)速度の合成則が出せる。
S'系で速度wの点がΔt'の間にΔx'=wΔt'動くとすると、上の逆変換から、S系での座標差と速度は
同様にしてヤルダたちの宇宙での速度の合成則は
これらを使って相対論的なロケットの加速を考える。
相対論的なロケット
母星を発ったロケットが速度Vで動いている瞬間を考える。これが静止して見える系S、すなわちロケットとともに速度Vで運動する系で見る。「四空間」(4次元時空)上ではこれはロケットの「来歴」(世界線)に接する直線を時間軸、それと直交する3次元部分空間が空間となる系として捉えることができる。
この瞬間を母星系で時刻t、次の加速後を時刻t+dtとする。この間にロケットが静止質量dμの推進剤*2を後方に速度wで噴射したとすると、4次元的な運動量の保存則から次の式が得られる。
せっかくcとbで区別していたがまとめて扱ってしまうためcで統一した。複号は上の-が相対論、下の+が回転物理。
微小量dvは加速後のロケットのS系での速度である。微小量の1次の項だけ残すと、等式は
と書き換えられ、さらにdμを消去すると
を得る。速度の合成則から、t+dtでの速度は母星系で
dvを消去した後変数分離して積分すると、
t=0で速度0、質量M0として積分定数を決めた。見てのとおり符号の違いがtanhとtanの違いをもたらしている。図示するとこの通り。原点近傍で3つがほぼ一致していることも分かる。
推進剤の噴射速度を大きくするほど、加速後のMを小さく(燃料の質量比を高く)するほど最終的に得られる速度が大きくなるのはどの場合も同じだが、相対論では光速cが壁になっていることが分かる。一方回転物理では有限の燃料で無限の速度に達することができる。
その量は質量比で
これが往路での加速に必要な太陽石の質量比の下限ということになるだろう。
仮にエウセビオの言った通り2/3だとすると、
と熱したガスは紫外線(青い光の約1.5倍程度の領域)程度の噴射速度が必要になる。
――という結果を得たがガスをそんなに高速で噴射できるだろうか……。
それよりありそうな可能性は光の運動量の寄与が無視できないほど大きいということのような気がする。*3
ではもし速度無限の推進剤を、すなわち「紫外極限」の光だけを放出することができるとしたら?数学的な極限操作に対して大らかになればそれは燃料を消費することなく推進できることを意味する。それこそが〈永遠の炎〉であり、この実質的な第二種永久機関を見つけ出せるか否かに〈孤絶〉が故郷に帰れるか否かが賭けられているのだった。
燃焼効率
私たちの宇宙でもっとも効率がいい推進剤は質量を全てエネルギーに変えてしまえるもので、それは通常物質と反物質との反応になる。質量Mのロケットがそのうちdmの推進剤を後方へ速度wで噴射して速度dVを獲得するとする。そのうちさらに割合εがエネルギーに変わる(質量欠損)とき、4元運動量の保存から、
時間成分にのみ注目すると、
これが推進剤の噴射速度wと変換効率εの関係になる。化学燃料や核分裂・核融合を使う限りεは極めて小さいが、もしε=1を実現できればw=cとなり、質量を全てエネルギーに転換できる。物質と反物質の対消滅によるγ線の放出によってこれが実現される。
ではヤルダたちの宇宙ではどうか。今度は質量欠損ではなく「質量獲得」が起こる。
さっきと同じような状況で、しかし推進剤が割合εの質量を得るとして計算する。
乱暴な計算だがここでwdmを一定値dpに保ちながらwを無限大とする。すると
と、ロケットからの質量の損失dmがゼロでありながら加速することができる。これがエネルギーの保存則に反することなく、光を放つだけで加速させることのできる〈永遠の炎〉だ。
同じようなことは私たちの宇宙ではできない。もっとも効率が良くてεを1にすること、つまり物質-反物質対消滅による推進が限界になり、燃料無しに自力で加速することはできない。〈永遠の炎〉はある意味で反物質による推進に例えることもできそうだが(「ネレオの矢」の話などいかにもそれらしい)、決定的な違いがここにある。
光子
計算していて気になったことだが、ヤルダたちの宇宙では光子が静止質量を持つとみなせるらしい。(そもそも「光子」に対応するものが存在すると考えてもいいのか分からないが、四空間上の波数ベクトルに平行なエネルギー運動量という概念をヤルダたちはかなり自然なものとしてみなしているように感じる。)私たちの宇宙と違ってノルムが0のベクトルは0ベクトル意外に存在しない――正定値計量として当然の性質――ため、運動量を持つなら必ず大きさも持つことになるためだ。定量的な解釈は量子論以前にとりあえず古典的な光の場の理論(≒電磁気学)を待たねばならないが、私たちの宇宙との面白い違いだ。
第三宇宙速度
今までとほとんど関係ない話だが、エウセビオが小型ロケットの試験打ち上げを行う場面でさらっと第三宇宙速度が第二宇宙速度の3倍であることに言及される(p.273)。ちなみに私たちの地球と太陽ではその比は1.5倍程度。だが「ハビタブルゾーン」の概念も違う(そもそも液体が存在しない)ためここから言えることはほとんどなさそう。
気になること
話が再び回転物理でのロケットの加速に戻るが、w/cln(M0/M)をπ/2に近づけてそれを超えてしまっても普通に意味を持ち、それは負の無限大の速度から速度0へと近づいていく加速を意味する。四空間上で考えれば話は簡単で、時間軸に垂直になったのち負の傾きを持つようになるということ。しかしそのとき〈孤絶〉は母星とその周りの星の「時の矢」に対して遡ることになる。ベネデッタは往路で疾走星や直交星群の「時の矢」に逆らうことになることを心配して探査機によってそれを晴らしたが、母星の属す星群に対するそれはどう考えればよいのだろうと気になった。
まとめ
タイトルにも含まれる「ロケット」について改めて考えてみた。〈孤絶〉の燃料の質量比を計算するための太陽石の燃焼効率の数値などを探してみたが見つからなかったので残念。しかし少なくともこっちの世界での核分裂並の激しさ、ひょっとしたら対消滅くらいに捉えてもいいのかも。『ディアスポラ』でも5+1次元マクロ球での化学反応が核融合によって進むという説明があったが、物理法則が違えばスケールも変わるものだ。この作品を読むと改めて私たちの宇宙のスケールに縛られていてはいけないことを感じさせられる。
続きがとても気になるためOrthogonal2巻"The Eternal Flame"に挑戦し始めてみたが、英語で躓いてトホホ状態になった。ゆっくり読みながら私たちの宇宙の物理の知識も備えなければ……。
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