〈蚊の禿〉とは
先日ストルガツキー兄弟の『ストーカー』を読んだ。「未知との遭遇」ものの古典とのことだが、簡単にあらすじを書いておく。
~あらすじ~
地球を訪れながら、地球人とのコンタクトを行わなずに去った「来訪者」。彼らは地球上のいくつかの地点を、異常な現象の発生する危険な土地「ゾーン」に変え、そこに人類には未知の原理に基づく謎めいた物品の数々を残していった。レドリック・シュハルトは立ち入り禁止となっているゾーンに不法侵入し、それらの収集と闇市場での売却を生業とする「ストーカー」の一人である。ゾーンからもたらされる物品による恩恵、人類に与える不気味な影響、来訪の意味――謎は謎のまま、しぶとく生きるレドリック達ストーカーを中心に、ゾーンを巡る人々の姿が描かれる。
この作品最大の楽しみの一つは、何といっても少しでも扱いを間違えばたちまち人を死に至らしめる来訪者の遺物の数々だろう。ゾーンのひんやりとした不気味さと相まって、用途も原理も不明な物品がばらまかれている風景はとても魅力的だ。〈空罐〉、〈熱い綿毛〉、〈悪魔のキャベツ〉、〈魔女のジェリー〉、〈蚊の禿〉〈黒い飛沫〉、〈ムズムズ〉、〈適量〉……ストーカー同業者間での通称とされるこれらの名前。山括弧でくくれば何でもかっこよくなると思いおってからに~~!!!だいすき~~!!!命名の由来がきっちり分からないところもまた空想の余地があってそそられる。
ところで原語はロシア語である。あとがきにも書かれているが原題は≪Пикник на обочине≫:「路傍のピクニック」。そのためこれら固有名詞は元はだいたい二重山括弧でくくられている。
≪Пустышка≫:〈空罐〉
≪Ведьмин студень≫:〈魔女のジェリー〉
≪Комариная плешь≫:〈蚊の禿〉
≪Зуда≫:〈ムズムズ〉
――といった具合。ロシア語版Wikipedia(Википедия)の記事のАномалии(異常現象)、Артефакты Зоны(ゾーンの人工物)の項目に一通りまとめられている。僕も全部読んだわけではないが……。
Пикник на обочине — Википедия
さて本題に入る。気になるのは〈蚊の禿〉だ。ゾーン侵入の洗礼を与えるように浮上車〈フライング・オーバーシューズ〉に乗り込んだレドリック・研究者キリール・テンダーを待ち構える重力異常である。読んでいけば命名の由来が少しは掴めるようになるかと期待していたが、最後まで分からない。その姿と作用が比較的分かりやすく描かれるのに反して呼び名のほうははっきりしないのだ。なぜ〈蚊の禿〉? 蚊柱のようなひずみが目に見えるのかなと想像したこともあったが、読む限り完全に不可視だ。
一方、科学者(レドリックに言わせると「石頭」)たちによる呼称は「重力凝縮場」≪гравиконцентрат≫。そのまんまだ。
ロシア語版ウィキペディアの記事を見たのもこれが気になってのことだったのだが、素直な訳であることが分かっただけだった。Комарはずばり「蚊」。Комариныйで形容詞化され、плешь:禿にかかってまさしく「蚊の禿」。うむむ。
いちおうこれらの語が出てくる部分をロシア語、日本語、英語で引用しておこう。特に手掛かりが得られるわけではないが。引用元は、ロシア語・英語がWikipediaの参考にも挙げられている以下のサイト。原語版に英訳が並べられている(ところでfull textを読めるのは何故)
Пикник на обочине – Roadside Picnic
日本語は深見弾訳(1983)『ストーカー』(早川書房)。新版が2014年に復刊されているがその前に古本で買ったもの。何年本棚で眠らせていたんだ。新版は訳は特に変更されていないとのことだが未確認*1。
「重力凝縮場」
(ロシア語)
― Теперь самым малым веди ≪галошу≫ к этой гаечке и в двух метрах до неё не доходя остановись. Понял?
― Понял. Гравиконцентраты ищешь?
― Что надо, то и ищу. Подожди, я ещё одну брошу. Следи, куда упадёт, и глаз с неё больше не спускай.
(日本語訳p.41)
「それじゃ〈オーバーシューズ〉をあのボルトのところまで持っていくんだ。ただし、二歩ぐらい手前で止めろ、ぴったりくっつけるな。わかったか?」
「わかった。重力凝縮場を探しているのか?」
「おれが必要だと思うものを探しているんだ。ちょっと待った。もう一個投げる。どこへ落ちるかよく見ていろ。ボルトから絶対目を離すな。」
(英語訳)
"Now drive the boot at the lowest speed over to the nut and stop two feet away from it. Got it?"
"Got it. Are you looking for graviconcentrates?"
"I'm looking for what I should be looking for. Wait, I'll throw another one. Watch where it goes and don't take your eyes off it again."
〈蚊の禿〉
(ロシア語)
― Стой, ―говорю. ― Ни с места…
А сам взял пятую и кинул повыше и подальше. Вот она, ≪плешь комариная≫! Гаечка вверх полетела нормально, вниз тоже вроде нормально было пошла, но на полпути её словно кто-то вбок дёрнул, да так дёрнул, что она в глину ушла и с глаз исчезла.
(日本語訳p.42)
「止めろ。このまま動かすな……」
五つめのボルトを手にとると、少し高く、遠くへ投げた。そら、あれだ、〈蚊の禿〉だ! 上へ飛んでいくときは普通の飛びかただった。落ちてくるときも途中までは異常がなかったが、不意にひったくられたように脇へ外れたのだ。そのひったくられかたがあまりにも激しすぎたので、粘土の中へもぐってしまって見えなくなった。
(英語訳)
"Hold it," I said. "Don't move an inch."
I picked up another one and threw it higher and further. There it was, the mosquito mange! The nut flew up normally and seemed to be dropping normally, but halfway down it was as if something pulled it to the side, and pulled it so hard that when it landed it disappeared into the clay.
(※太字は引用時に施した)
英語版は訳がいくつかあるようで、新しいものでは"bug trap"の訳もあった。全文は公開されていないがサンプルページに載っている。
Roadside Picnic | Independent Publishers Group
"Bug trap"とするとその性質と結びついてなかなかしっくりくる。まさしく罠だ。しかしкомариная плешьの訳としてはかなり離れてしまっている。
上に引用した訳では"mosquito mange"になっている。Mangeは(人以外の)獣の疥癬の意味で、「禿」そのものとは少し違う。しかし疥癬がダニの一種によって引き起こされるものであるから、それの「蚊の疥癬」とすると医学用語的な響きを持って、もしかするとそういう術語があるのかもと思わされる。
ところでкомарを露語辞典(博友社ロシア語辞典)でひくと、成句に≪Комар носу/носа не подточит≫が口語マーク付きで挙げられている。意味は「一点非の打ちどころがない。」
これについて検索してみると、次のような記述があった。
「ロシア語一”語”一会」
http://www.h5.dion.ne.jp/~biblio/nasu/nasu59.html
Комар носа (носу) не подточит.
意味は「文句のつけようがない」
製品を作るとき、蚊がその鋭いくちばし(нос)を突き刺せる傷がないほど表面を滑らかに仕上げたことに由来する。
これを見ると、комариныйには、もしかするとこの成句に由来して「完璧な」の意味を持たせているのではないかという考えが浮かんでしまう。しかし辞書的にはこの形容詞に本来そういう意味はなく、検索してもそういった用例は見つからない。もっとも、ロシア語の文章を探す能力はあまりにも乏しいのだが……。
仮にкомариныйがそういう意味だとすると、≪Комариная плешь≫は「つるっ禿」といったところだろうか。「禿」とのつながりでしっくりとくるのは確かだ。
ではもし「つるっ禿」ならこの呼び名をつける理由は何だろう?
作中での描写を思い出すと、「重力凝縮場」はブラックホールを思わせる。ところでブラックホールには「ブラックホール脱毛定理」なるものが知られている*2。いわく、ブラックホールの事象の地平面の外側から観測できる量は質量・電荷・角運動量に限られる。もし三つの量すべてがゼロなら「つるっ禿」になるのではないか。
ただこの見方は問題がある。「ブラックホール脱毛定理」自体は1960年代後半から調べられていたらしいとはいえ、≪Пикник на обочине≫の発表が1972年であることを考えると、学術界の外で用いられる表現としてはやや無理があるようにも思われる。
……と思っていたが弟ボリスБорис Натанович Стругацкийはレニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)で天文学を学び、1955年に卒業したあと1966年までプルコヴォ天文台で天文学者・コンピューター技師として働いていたらしい。全く「外」ではないどころかおそらく最先端に近いところにいたはずだ。
ストルガツキー兄弟 - Wikipedia
「Talkingheads-series ストルガツキー兄弟・紹介 - アトリエサード」
http://www.a-third.com/th/author/strprof.html
Братья Стругацкие — Википедия
なお、兄アルカジイАрка́дий Ната́нович Струга́цкийは軍で日本語通訳者として働き、のちに日本文学研究者として安部公房『第四間氷期』などの翻訳を手掛けたそうだ。
〈蚊の禿〉の意味。40年後の非ロシア語話者にそう誤解させてしまうような楽しい偶然、というところで納得しかけて他の説明を探そうとしたがかなり魅力的な説のように思われてきた。むしろ正誤はともかく遥か昔に言及されていそうだ。これに関する記述があれば教えていただけるとありがたいです。
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(映画もいずれ見ておきたいですね。)
追記(2016/08/19/21:33)
@biotitさんにご指摘をいただき、≪комариная плешь≫が既に一つの成句で「つまらない」「取るに足りない」等の意味があることを知った*3。これはちょっとお粗末だった。調べるとたとえば次の同義語辞典が出てくる。
комариная плешь - это... Что такое комариная плешь?
ゾーン内のアノマリーの中でもありふれたつまらないもの、と思うとしっくりくる。
思い返せば〈空罐〉:≪Пустышка≫は、пустой:「空の」「無意味な」に指小辞-шкаがついたもので*4、こちらにはありふれたアーティファクトであるという意味も込められていそうだ。実際に「空っぽ」であることに加えて。
明らかな手抜かりのあることが発覚してしまい、「説得力のあるこじつけ」の感を強くしたので取り急ぎ追記した。ただ、あえてこの慣用句を選んでいる理由に〈空罐〉同様二重の意味が与えられている可能性はまだ捨てがたい。
より広範な問題として、「SFの中に登場するブラックホール」の歴史を知る必要もありそうだ。
*1:この記事で修正すべき場所など見つかればそのときは書き直します。
*2:数学的に証明はされておらず厳密には定理ではない、ということがWikipedia英語記事などに書かれている。 No-hair theorem - Wikipedia, the free encyclopedia
*3:https://twitter.com/biotit/status/766586552327610368?lang=ja
*4:ちなみにпустышкаは辞書には「おしゃぶり」の意味で載っており、画像検索するとずらっとおしゃぶりが並ぶ。