Shironetsu Blog

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『重力の使命』であそぶ―(1)メスクリンの表面重力

重力の使命

 はくちょう座61番星C. 黎明期の系外惑星探査の第一人者ピーター・ヴァンデカンプの指導の下カイ・オーゲ・ストランド博士の観測によって「発見」された16木星質量の見えない暗い星.
 1942年に明かされたこの発見がひとつのSF作品のインスピレーションを与えた. ハル・クレメントにより1953年に発表された『重力の使命』"Mission of Gravity"である.
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 (いきなり関係ない話になるがこの表紙画には微妙に不満がある.メスクリン人の脚には吸盤があって「踏ん張る」場面が描かれているのだがこの脚では無理そうだ. このページに挙げられている想像図(ウェイン・ダグラス・バロウ『SF宇宙生物図鑑』がおそらく初出だがこの本は入手困難)のほうがそれっぽいと思う.)
aliens.wikia.com

 「科学的」SF, ハードSFに新しい流れをもたらしたというこの作品の魅力は, 科学的知見を基に緻密に構築された作品世界にある.
 舞台となる星は惑星メスクリン. 実際のデータから16木星質量を与えられたこの星に, 想像を拡げたクレメントは奇抜な特性を加えた. 北極と南極からはさんでぎゅっと押しつぶし, 勢いよく回転させたのだ. その結果この星は赤道直径4.8万マイルに対して両極を結んだ長さ2万マイルときわめて平たく(クレメント曰く「土星顔負けに」――太陽系で最も扁平率の大きい土星でさえ赤道半径は極より1割大きいに過ぎない), 17分45秒で自転軸をひとまわりとすさまじい高速で回転する楕円体になった.
 もちろん奇妙なのは見た目だけではない. それは地表に降り立つと明らかになる.
 赤道での重力は地球の3倍. 地球の5000倍に及ぶ質量は中心方向への強い引力を働かせるが, 高速回転の遠心力によって相殺され差し引き3gを感じることになる. ここでは特製のスーツを着た地球人なら歩ける. しかし極地, つまり自転軸の近くへと進むにつれ状況は変わっていく. 遠心力の助けは弱くなり, 一方で扁平さが引力の中心部へと近づけさせるため重力はどんどん強くなっていく. 極地においてはついに遠心力が消え, そこを支配する重力は地球の665倍にもおよぶ.
 ストーリーは, この驚くべき惑星の調査のため極地へ着陸させた地球人の探査機が離昇できなくなったことをきっかけにして始まる.
 地球人の足では極地へ到達するどころか赤道から離れることすらままならない. そこで希望を託すことになったのがこの星の原住民メスクリン人だ. 高緯度の高重力地帯出身の彼らは, ムカデのようと形容される, 多脚で細長いが頑丈な体に, 物を作り文明を持つための知能を備えている. そんなメスクリン人の航海士バーレナンをはじめとした筏「ブリー号」の乗組員たちと〈空の人〉;地球人との交流と旅が描かれる.


ストランドの星
 ハル・クレメントが物語の舞台として, 間接的な証拠から当時その存在が予想されていたはくちょう座61番星C(Cygni 61C)を選んだのは先に述べたとおり. しかし実はこの星, 現在はその存在が否定されているのである.
 太陽系外の惑星探査には大きな困難が伴う. 理由は単純でその周りを回る恒星と比較するとあまりに小さく自ら光り輝かないため.
 しかし太陽以外の恒星が惑星を持っているかどうかという問題は重要だ. 惑星系形成の理論は比較の対象が揃うことによって理論としての信頼度が増す. 他の星の住民を探すにしてもまずは恒星よりは惑星だろう. なにしろ唯一生命が観測されているのは地球という惑星だけなのだから.
 自然な成り行きとして1940年代頃から実際に系外惑星探しが始まった. しかし今言ったように直接「見る」のは技術的に当時まだまだ難しかった. そこでとられた手法の一つが「アストロメトリ法」である.
 恒星はその周囲を惑星が回っていると, 恒星自身も重心を中心に回る. この揺れの軌道を直接観測し, 見えない天体の存在を割り出すのがアストロメトリ法である. しかし恒星は文字通りほとんど動かない. 観測データの中からさらに地球の公転による視差の影響などを覗いて天体の固有運動を取り出すには非常に高い精度が要求される. 今世紀に入りようやく実際にアストロメトリ法による観測の成功例は挙がってきたが, 当時の技術では困難な方法だった.
 はくちょう座61番星Cはデータの中に現れた幽霊だったのだ.
 否定された学説であることにくわえ, 同じくこの時期にヴァンデカンプにより発見が主張されたものの後に否定されたバーナード星のほうがしぶとく有名だったということもあり, 最近の本ではあまり触れられていないため以上のはくちょう座61番星Cに関する内容はもっぱらWikipediaの以下の記事によった.

61 Cygni - Wikipedia
 
 初期の試みはこうしてすべて失敗に終わり, 系外惑星探査は長い停滞期を迎える.
 これを破ったのが1995年に発見されたペガサス座51番星のホットジュピターであったというのはよく知られている通り. 井田茂『異形の惑星』(NHKブックス,2003年)はたぶんいわゆる必読の書.
 これら1995年以降の発見を受けて書かれたのが小川一水の短編「老ヴォールの惑星」である. 舞台はホットジュピター, 登場するのはその海を泳ぐ知的生命, 描かれる「生き残る」ための物語. いいよね…….
 


「メスクリンは平たすぎる」
 クレメントは「メスクリン創成期」(ハヤカワSF『重力の使命』巻末に付属. 創元SF『重力への挑戦』にはのっていない)の中でメスクリンを生み出す過程について書いている. そしてそれは作者がすべての手を打ち終えたゲームであり, 作品世界について読者がまちがいを見つける楽しみが残されているとも言っている.
 そのゲームを楽しむべく, メスクリンに関してなされた国内の問題提起の中で代表的なもののひとつが「メスクリンは平たすぎる」と題されたレポートである*1. SFマガジン1976年2月号に掲載された記事だ.*2
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 主張の要点は次のようになる. 惑星といっしょに回転する系で重力(全質量が中心に集まっているとする)と遠心力の合力のポテンシャルを考える. 対称軸(北極と南極を結ぶ軸)を通る平面で切ると, その等位面は一般に二字曲線にはならないが, 重力が地表側に働く等位面は惑星を「包む」形になる. この等位面について, 中心からの高さの赤道/極比は1.5が上限値となる. メスクリンではこの比は2.4と大きく上回っている. つまり「平たすぎる」.
 さらにこの限界の比率に近づくと赤道上で等位面はとがった形になる(ちなみにこの中では述べられていないがちょうど臨界のとき計算すると北側南側間の角度は120度)
 図にするとよくわかる. 遠心力と重力の合力のポテンシャルを, 原点に点重力源があるとしてその等高線を描いたものが下の図.
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 単位はその限界の等高線がx=1.5を通るように規格化. これより外側では原点を包む閉曲線にならない.
 ほぼ同じ内容を前野先生が小林泰三「時計の中のレンズ」に対して解説している.
いろもの物理学者のかってに解説「海を見る人」
 これは数学的には全く正しい. しかし質量分布が球対称ではないことによる重力ポテンシャルの変形を無視している点には問題がある.
 クレメント自身もちろんこの問題は認識していて次のように述べている.

 「この惑星はひどく扁平なため、通常、球体にあてはまる法則、つまり表面重力の計算にあたって、すべての質量が中心に集中しているという考え方では、もしこの惑星の密度が均等であるとした場合、近似値すら出てこないのだ。質量が中心に大きく集中していると考えれば、ずいぶん助かる。この小説で使った地球重力の七百倍弱という概算も、それほど的外れではないと思う。しかし、もし異議のある方がいて、それが根拠のある意見なら大いに歓迎だ。(教えられていたときにはもう手遅れで使えなかった別の公式によると、わたしの見積もりは、二倍ほど大きすぎたらしい。……(後略))」

 これより前の箇所では中心核は高密度(ことばとしては出てこないがおそらく縮退していることを想定している. はくちょう座61番星Cは褐色矮星であるとも考えられていた)になっていると述べているため, この仮定の下では妥当な近似ではある.
 異議があるとすれば, 実は一様密度の楕円体上の重力場は正確に計算できるのだ. のみならず回転の遠心力によって表面をポテンシャル等位面にすることも可能. そしてメスクリンと同じ形の天体がもし一様密度なら(この天体はメスクリンそのものではないので「Uメスクリン」とでも呼んでおこう. UはUniformのU)極と赤道の重力加速度は356gと146gになる. その比は実は極半径と赤道半径の逆数の比である. メスクリンの200倍以上に及ぶ比には到底及ばない. 赤道での重力がメスクリンで想定されている3gよりはるかに大きいのだ.
 一様密度というのはざっくり言って中心に全部集中している場合とは逆の極限とみなせる. 仮定が違うのでこのことがメスクリンの性質についての矛盾になるわけではないものの, この事実は一考の価値がある.
 このことについて見ていく.


均一な楕円体の重力場
 導出を飛ばしていきなり書いてしまうと, 密度一様な楕円体の作る重力ポテンシャルに対しては次のような表式が与えられる.
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 ただし積分の下限νは楕円体内部の点で0, 外部の点では次の方程式
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の正根.

 個人的体験の話になるが, 自分はランダウ・リフシッツの『場の古典論』第12章(p.331)に載っていたことでこれを知った. 初めて見たときは何を言っているのか分からなかった. 1変数の積分から一様楕円体の作る重力場が求められる? 式の意味を理解するとじわじわと感動が沸き起こってきた. こいつはヤバい. と同時にランダウは全部読んでおくべきなのだなとも思うなど...
 明らかに極座標ではない何かこの問題に適した座標変換が使われている予感がし,岩波の数学公式集1をめくるとすぐにそれらしきものは見つかった. 楕円体座標と呼ばれる直交曲線座標である. 焦点を共有する楕円体, 1葉双曲面, 2葉双曲面の交点として3次元空間の点を表すのだ.
 詳しい導出は次の文書で読むことができる.

 Wei Caiさんによる "Potential Field of a Uniformly Charged Ellipsoid"
 http://micro.stanford.edu/~caiwei/me340/A_Ellipsoid_Potential.pdf

 『場の古典論』でこれを知る直前, まさにこの問題(ただしz軸回転対称の扁平楕円体)の数値解を3次元極座標で球面調和関数による展開と数値積分を使って解こうとしていた. 長半径より外側の点でのポテンシャルは多重極展開から比較的簡単に級数解が厳密に与えられる. そこから境界条件を決めてそれより内側の点でのポテンシャルを数値的に求めていこうとすると奇妙なことが起こった.短半径より内側では球面調和関数で展開された動径方向成分がl=4以上で0に収束していくのである.対称性からlが奇数の成分は0になるので, この結果はつまり短半径より内側でl=2までの成分しかないことを示唆している.
 変だなあと悩んで半日ほどを過ごしたあとで答えを探すというわけでもなく(試験があったのだ)めくった『場の古典論』でその答えを得られるという幸運に恵まれた. 不思議なこともあるもだ.
 機会があれば(というか特殊関数祭りをやる気になれば)その時の計算も紹介したいと思う. l=0の動径方向成分は割合簡単に厳密に解けるのだが, 変な形の関数と出会えてちょっと嬉しくなれる.
 話を戻そう. 『場の古典論』では注釈に参考文献としてラム『流体力学』が挙げられている. こちらを見てみるとこの結果はディリクレによって与えられたものらしい. 最近日本語訳が出版されていたラプラスの『天体力学論』にも載っている.
 数学的考察はもっと古くまで遡ることができる. 実はニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』、「プリンキピア」には幾何学的考察(といってもニュートン本人は積分法を駆使していたと考えられている)の結果として, 地球の極と赤道との重力の比が数学的に正確な形で与えられている. このことは第3篇命題18以降で議論されている.
 背景として, 当時地球が扁平(oblate)か扁長(oblate)かいずれの回転楕円体形状をとっているのか観測による決着が付いておらず, 科学的に重大な関心を持たれていた, ということがある. ニュートンにとっていっそう重要なことに, 万有引力説と対立していた渦動説(宇宙空間を満たす媒質が押すことで天体が動いているとする説)が扁長説寄りだった一方で万有引力の計算からは扁平な回転楕円体が予想されるため, もし観測によって示されればこちらに有利だったのだ*3.

 さて上の積分は回転楕円体に対しては初等的に求められる.さしあたり扁平な回転楕円体(oblate spheroid)しか使わないためそれを書き下す.
 極半径(c)をaP, 赤道半径(a,b)をaEで表す. ただしaP<aE. 離心率は,
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θeは表式を簡単にするために導入した. 真円に近いときθeは近似的にeに一致する. またθeを使うと扁平率は
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とあらわせる.
 幾何学的意味としては, 対称軸を通る断面図を考えると, 両極で楕円に接する真円へ赤道から引いた接線へ, 中心から下した垂線と中心から赤道へ引いた直線とがなす角と見ることができる. 楕円体に内接する球の表面に対して赤道がどれだけ離れているかを表す指標になっていると考えることができるだろう.

 z軸回転対称なので円筒座標を使ってx^2+y^2=ρ^2とする.次の関数を定義する.
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ここでuはρとzに依存して,
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これらを使うとポテンシャルは
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と書ける. 楕円体の内部ではP,Q,Rがθeだけで表せるため少しきれいに書けて,
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となっている.
 ここでθe→0の極限をとってみると
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となって半径aの球体内部のポテンシャルに一致することが確かめられる.

 この表式を得られたことの意味は大きい. この楕円体が平衡形状となるときの角速度を求める.
 z軸周りに角速度ωで回転させると, そこに載って動く系では遠心力のポテンシャルが加わり,
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が実効的なポテンシャルになる("Effective potential"の語はwikipedia的にはケプラー運動の動径方向成分に対するそれになっていた. が, 惑星形状論にはこの意味で使うものがあったのでそれに倣った. もっとも平衡状態(つまり回転系上で速度がゼロ)を議論する限りこれは確かにケプラー運動のそれと同じものである. というのもコリオリ力が働かないため).
境界面;地表は
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と表せるから, 地表面での実効ポテンシャルは
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 これがρによらないとき境界でのポテンシャルは一定, つまり平衡形状になる.
 そのためには
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であればよい. 前掲のラメの『流体力学』ではこれはマクローリンの楕円体と呼ばれている.
 球に近いとき,すなわちθe~0では
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と表せる. ちなみに地球の扁平率, 赤道半径, 赤道重力加速度を入れてみると
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1日の長さとして27.2時間が得られてかなり近い(測定という観点から考えるとむしろ重力加速度, 半径, 自転角速度から扁平率を得るための式だが).

 さて平衡形状をとっているとき, 境界を含む楕円体内部の実効ポテンシャルは
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と書ける.

 重力(加速度)はそのグラディエントをとって,
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地表面上の位置を緯度φでパラメトライズする(経度は無視).
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 これを使うと緯度φでの重力は,
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 結局,赤道で146g,極で356gという結果を得る.その比はcosθe : 1=1/aE : 1/aP.つまり半径の逆数の比.
 これは地表面が等位面になること, 楕円体内部の等位面がそれと相似な楕円体になることを知っていれば自然な結果である. なぜなら重力の比は等位面の間隔の逆数になるから.
Uメスクリンの赤道重力は本物のメスクリンより50倍も大きくなってしまった. これでは人間はどこにも立てない.
ところで上に引用した通り, 「メスクリン創成期」中でクレメントは極重力の700gは「二倍ほど大きすぎたらしい」と言っている. 「別の公式」というのはこれのことなのだろうか(だとすれば赤道のほうにも触れそうだが).

 ここまでの結果を視覚化しておく.
 遠心力0のときのポテンシャルの等高線.
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 表面がポテンシャル等位面になるような自転角速度をもつとき.
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 青色で示したのは, 赤道の上の重力と遠心力が釣り合う点の等高線. 「平たすぎる」ことはないがかなりきわどいところ. 地表は大丈夫だが大気は逃げ出してしまうかもしれない.

 この勾配をとると各地点での実効的な重力の向きは次の図のようになる.
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右が平衡状態. 地表に対して重力と遠心力は垂直. 左は角速度0. マゼンタが重力で, 青と赤はそれぞれ地表面に対する平行垂直分力. 中緯度で「横向き」重力が大きくなる

 これを見るといろいろ想像が膨らむ. 「バジリスクの卵」ですでに書いたが, 表面が等位面になるための角速度に足りないと極から赤道まで向かうときずっと後ろ向きの重力が働く. 赤道越えが登山になる. すると赤道では大気もごく希薄になるだろうし, 宇宙飛行士のような装備で真空を登山する図が想像できる.
shironetsu.hatenadiary.com
 赤道で生まれて極地域で育ち, 鮭の回遊のように産卵のため再び赤道に帰るまでの過酷な道を往く生物, というのもちょっと想像した.
 歳差運動で居住可能半球が変わるため歳差運動由来の氷河期が迫ると群れを成して登山する生物, なんていうのもいい.

 閑話休題. 表面の重力の様子は分かったが, 天体の形についてもう少し考える.

 密度が与えられたとき, 平衡を保つ角速度には上限がある(思い出してほしいのは, 形と密度が与えられれば平衡角速度は決まること). なぜなら,
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の右辺はθが0からπ/2にわたるとき有限の範囲を動くため.
詳しく調べると極値
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をただひとつ満たすζ=0.3953...によって極大をとることでのみ実現される.
このとき
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この上限値を臨界角速度ωc,と呼んでおき周期をTcとすると,
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 この制限は意外に厳しく, 地球では2時間25分, 太陽系内の惑星中最も低密度の土星では6時間50分を下まわって1自転周期が短くなれないことが導かれる.
Uメスクリンはこれが19.4分になる. メスクリンは17.8分で一回転するので平衡形状としては実現可能だが, 自転がわずかに速すぎる.
 しかし偶然にしてはかなり近く, 質量をわずか1.2倍にすれば臨界角速度を下回る. ただしメスクリンは赤道/極半径比が2.43なので臨界形状よりやや縦長でもう少し質量が要るが, 2桁まではこれと変わらない.

 なお臨界角速度未満では同一の角速度に対して異なる2つの形状をとることができる. 24時間で回転する地球と同じ密度の回転楕円体はこのとき極半径が赤道半径の880分の1になるが, まあほとんど円盤だ.


安定性
 平衡形状の安定性も考えてみる.
 まず自己重力エネルギーUを計算すると
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とちょっとすばらしく簡単な形になる.

 回転の運動エネルギーKとの和をとると全エネルギーは
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 角運動量Lと体積,密度,質量一定の下で全エネルギーを最小化することを考える. 安定性の条件として角運動量と密度が保存されるときにエネルギーが最小になるとするということ.
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 下付き添え字Sは球のときの値を意味する.
 これによりEはθeのみで表せる.
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 意味を考えれば明らかであるが, θeがEの極値を実現するという条件から地表面を実効重力のポテンシャル等位面にするΩが再び与えられる.
 そして極小値は任意の正のKとUの組に対してただひとつ常に存在することが示されるため, 扁平な回転楕円体形状をとる限りは安定であることが結論付けられる.
 ではより自由度の高い擾乱に対してはどうかというと, ある点を超えると不安定になることが知られている.
 『場の古典論』には結果だけ引用する形でこのことが記述されており, 参照元として挙げられているのが『流体力学』であった. しかしこちらもまた結果だけの引用の形であり, さらに注釈には(ヤコービの楕円体;3軸不等の楕円体の平衡形状の永年安定性と並べて)「この結果は, 前の結果と同様, 証明なしに Thomson and Tait, Natural Philosophy(斜体)(2nd ed.), 778"節に述べられている.」(3巻第12章379節)とあった. 重要な結果なので天体物理学の本を探せば詳述されているはずだが, 今のところはここまでしか辿れていない.
 その『流体力学』の中では次のように述べられている.

「マクローリン楕円体は, 楕円体型の撹乱に対して, 離心率eが0.8127より小さいか大きいかに応じて永年安定か不安定である....(中略)...eが上述の限界より下にある限りは, あらゆる変形に対して平衡は永年安定ということがポアンカレによって示された.」

 離心率e=0.8127で極半径/赤道半径比は0.5827, 扁平率は0.4173となる. この安定性についての制限はここまでで最も強い. 密度一定・楕円体形状の条件下では自己重力でまとまる流体の赤道半径が極半径の2倍を超えることはない.

 つまりまあ再度「メスクリンは平たすぎる」と言うことになった……が, ここで論じているのはあくまでUメスクリン. メスクリンそのものを論じるにあたっては内部で高密度になるような密度分布を考慮しなくてはならないが, これはかなりやかっかい. というか今の自分にはできない. しかし固体表面を持つ天体内部の物質状態としてそんな高密度になることは可能だろうか. 考慮すべきことがかなり多くなっていく.

 重力の問題についてはこのあたりにして次の記事で歳差運動について考える.

参考
 mixi上でメスクリンについて色々考察されている記事があった. この記事を書くにあたり参考にさせてもらった.
open.mixi.jp
 重力や「平たすぎる」問題については特に第7回目でテーマにされている.
open.mixi.jp

*1:というか寡聞にしてこれ以外を知らない. ネット上では少し検索すると海外の科学フォーラムでメスクリンの名を出して扁平な惑星に関して議論している場などを見ることができる.

*2:ところでなぜ自分がこの40年も前の号を持っているかというと「ハードSF特集!」の文字が赤々と背に書かれていたから. クラークの「宇宙のランデブー」の連載や堀晃「暗黒星団」, さらにハル・クレメントの「常識はずれ」という短編が載っている. この「常識はずれ」はデネブを周る鉛の融点にも達する灼熱の惑星上で蟹のような生命と宇宙飛行士が出会うという話. 短編集をください.

*3:和田純夫(2009)『プリンキピアを読む』 講談社ブルーバックス 参照. しかしプリンキピアまで遡れてしまうとなるとなんだか無力さを痛感してしまう. もっと早く知っていれば...

バジリスクの卵

 北斜面生態系に属す生物は照期-昏期サイクルに同期したきわめて長周期の生活史を持つ。南極恒久研究所所属の研究員達のおよそ200年にわたる継続的な研究により集められた驚くべき観察記録は、南斜面生態系でも同様の適応が起こっていることを明らかにした(隔絶された2つの半球の生物たちの比較は進化に関する新たな知見をもたらすだろう)。
 南斜面最大の捕食者〈サラマンダー〉もまた、複雑な体制を持つ六肢動物でありながら照期-昏期サイクルに適応している。
 照期が近づくと夏の空に昇る太った太陽に照らされ斜面に苔が芽吹く。一次生産者であるその苔に群がる節櫛虫を捕食する重顎虫を、さらに捕食するのが〈サラマンダー〉だ。斜面に生息する多くの生物がそうであるように、この時期彼らは最も活動的になる。平たい顔の側面に並ぶ4つの目で重顎虫を見定めると先の割れた幅広の尾で跳びかかって食らいつくのだ。最照期の前後に彼らは南極海潮間帯に暮らす祖先たちと大きく変わらない方法で平均して4回世代交代する。ただし各世代に占める覚醒期間の割合は、南極海の生物たちをはるかに下回る。秋から春にかけて斜面生態系丸ごとが休眠状態に入るためだ。
 やがて昏期が近づき夏の太陽が痩せ始めると、獲物の減少に応じて〈サラマンダー〉の活動は鈍く、体も小さくなる。決定的な時期が訪れ主食の重顎虫が卵として地下に潜ると〈サラマンダー〉の耐昏相への移行が始まる。地面を這うための脚は縮小し、泡繭を紡ぐための腺が発達する。そして栄養をため込んだ嚢とともに泡繭の中に閉じこもる。昏期の夏の痩せた太陽では食物連鎖は回せない――南斜面の照期の夏の繁栄をもたらしていた太った太陽は、同じ時期に赤道環を越えた向こう側で照期を迎える北斜面の空に輝いている。照期の個体が経験する休眠よりはるかに長い期間を繭の中でじっと耐え抜く耐昏相はきわめて長命だ。胎生でありながらいわば卵として、長い昏期を乗り越え次の世代へ遺伝子を継ぐことこそが彼らの使命なのだ。
 春が訪れると彼らの役目は終わる。夏の太陽が太り、回復し始めた苔叢に小さな子を産むと痩せた体は破った泡繭の外で動かなくなる。



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 われわれの知る最初にして唯一の超大扁平率天体(SOO)は、発見当初スーパーアースとして誤って分類されていました。しかしトランジット観測により得られた光度曲線の"底"に大きな変化が見られたことからその特異性が知られることになります。
 トランジット法では主星を公転する惑星の蝕による光度の減少から惑星の性質を調べられます。光度の減少率は惑星が主星を横切って作る"影"の大きさに比例するため、光度曲線の底の深さはおよそ断面積の大きさに比例します。SOOの数回にわたるトランジット記録には顕著な断面積の変化が表れていました。惑星は自己重力で集積し、真球に近い形状をとるため断面積の変化は通常きわめて微小です。SOOではこの変化が公転1回(0.16地球年)あたり0.4%に及んでいました。
 この事実を説明するために提唱されたリング拡大説・大気膨張説には決定的な反証があり、有力な仮説として残されたのは大扁平率説でした。
 惑星は自転により赤道方向にやや膨らんだ回転楕円体形状をとります。そのため影の大きさは光の照射方向に応じて変化します。また、膨らみが主星の重力に手がかりを与えるため、自転軸の変化が引き起こされその周期は扁平率(赤道半径と極半径の差の赤道半径に対する割合)が大きいほど短くなります。これは歳差運動と呼ばる現象であり、こまが高速回転と同時にその軸をゆっくりと変えていくことにたとえられます。
 つまり扁平率が大きいほど光度曲線の底の深さの変化は速くなります。
 この原理に基づき、シミュレーションによる解析が行われました。当時ドップラー分光法により軌道長半径、および軌道離心率は確定した値が得られていたため、光度曲線の形状なども考慮に入れることで天体の形状の絞り込みが可能でした。
 推定された姿は赤道半径が地球の6.1倍、極半径が2.5倍で扁平率0.59というきわめて扁平な回転楕円体でした。平均密度は1.5g/cm^3です。
 一様密度の扁平な回転楕円体は自転の遠心力により平衡状態になることが常に可能です。しかしこの扁平率は安定性に問題があることが知られています。
 自己重力で集積する流体として天体の安定性は調べられます。それに従うと、扁平率が約0.42を超えると微小な擾乱に対して不安定になることが示されます。他の要素を考慮するとより厳しい制限が加わりますが、このもっとも単純な安定性解析による上限値すら推定値は超えていました。
 多くの反論がなされましたが、最終的に次世代宇宙望遠鏡による天体の直接撮像が予想を裏付けました。
 一連の研究は"産業のためのSETI"共同体の主導により行われました。
 SOOと呼ばれるようになったこの天体は、ダイソン球やケンプラーの首飾りに匹敵する天体スケールの工学的産物である可能性が指摘されました。回転楕円体形状を保つ未知素材、ないしは手法を解明できれば莫大な利益をもたらすと考えられます。



***

 彼らは扁平率を愛していた。
 母星の地表にしがみつく柔らかくか弱い存在だったころ、空から彼らを見つめる赤褐色の〈眼〉――衛星である彼らの母星がその周囲を巡るガス巨惑星――は、その表面の白い筋の流れる方向に少し膨らんだ楕円の輪郭を持つことが、少し注意深く観察した者にはすぐに分かった。たぶん彼らの扁平率への執着は部分的にはそこに由来するのだろう。健脚と星の小ささのために宙に浮かぶ球状の世界という考えに馴染むのが早かった彼らの神話の中には、空に浮かぶ扁平な楕円体の世界を祖先たちの生地にとったものがいくつもあった。自分たちは〈眼〉から産み落とされたのだと。彼らの科学はまもなくそのガス巨惑星が生命を宿すためにはいかにも過酷な環境であることを解明したが、それでもなお「母」としてその星は親しみの対象であり続けた。
 工学がやがて彼らを定命と肉体の束縛から解放した。真空を疾駆し星々の歌に耳を澄ませ、それまでそうであり続けたように真理を学ぶことをやめなかった。
 巨大な力を得た彼らは、その行使の対象として宇宙をかき乱すことを慎むべき行為だとみなすようになっていたが、炭化水素から成る脆く湿った存在だったころに精神の核に宿していた衝動を捨て去ってしまうことはできないでいた。すなわち重力に抗することを。程度の差こそあれ、それは持ち上げたものが落ち、積み上げたものが崩れる世界で生まれた知性が共通にもつ文化的性向であった。
 かつて背丈の数十倍にもなる塔を建てた。深い谷に橋を架けた。摩天楼の立ち並ぶ都市を造りあげた。ロケットで天の向こう側へ飛び立った。
 そして扁平率を愛していたことを思い出した。
 それは祖先たちの空想を具現化する事業だった。必要とする技術とエネルギーこそ比べるべくもないほど莫大なものだったが、獰猛な獣を合成した空想上の動物の彫像を作ったり、空に浮かぶ架空の島を絵に描くような芸術的営為の延長に過ぎなかった。
 彼らは扁平な楕円体の星を作ろうとしたのだ。ただし宇宙中を探しても見つからなかったような平たさを。自然には現れえない極端な扁平率を持つ回転楕円体を。
 実際にそれに取り掛かったのは芸術家集団とでも呼ぶべきひとつの共同体だった。宇宙中に広がる同胞たちの中では幾分奇矯な行いに手を染めがちな一派ではあったが、知性を宿していないことを理由に天体を掘削し解体することはしなかった。そもそも安定性の限界を超えて天体サイズの回転楕円体を作るには、この宇宙に存在する物質では強度があまりに不足する。
 彼らは真空から取り出した圏外物質を使うことにした。適切に選定された圏外物質は、通常物質では実現不可能な途方もない強度を持つ固体状態を形成する。それゆえ、表面でポテンシャル等位面をなすよう巨大な角運動量を与えつつ育てられた氷惑星級の圏外物質天体は、液滴よりむしろ岩として集積していた。彼らがその気になれば惑星大の立方体を作ることすら可能だっただろう。もっとも、彼らの美意識に従えば自然からの逸脱は最小限であるべきだった。
 コンパクト天体に匹敵する永続性を約束された楕円体は、彼らの祝福を受けながら回り続けた。
 やがて作り主たちはこの宇宙を去った。彼らは彼らがこの宇宙で生きた証を残そうとはしなかったが、単なる愛着が楕円体を葬ることを思いとどまらせた。
 楕円体は恒星間の冷え冷えとした暗黒を、生まれもった角運動量はそのままに孤独に漂い続けた。

 彼らに落ち度があるとすれば楕円体を銀河間の虚無に産み落とさなかったことだろう。
 重力のいたずらにより、原始惑星系円盤の幼年期をようやく脱したばかりの若い赤色矮星の支配圏が楕円体の通り道に重なった。楕円体は初めて浴びる温かな電磁波の下で恒星の子供たちとの重力多体系のあわただしいワルツに加わった。
 舞踏会は2つの岩石惑星と1つの未熟なガス惑星の退場をもって閉会に至った。
 3つの惑星を弾き飛ばして大離心率ながら安定な軌道を得た平たい取り替え子は、ガス惑星が取り込むことになるはずだった残り少ない元素の雲をまといその地表に沈着させた。

 今や放浪者となった3つの惑星はそれを宿すにはあまりに過酷すぎただろう。この主系列星の下では複雑な有機化学のドラマは進行しないはずだった。一方作り主たちは他の星の運命に介入することはあってはならないと考えていたし、ましてや揺籃をつくるつもりなどなかった。しかし偶然にも楕円体の極の海は自己複製する炭化水素分子にとって好適な環境を提供したのだ。



****

 仮想のガラスドームいっぱいに楕円体が投影される。肉体時代にこだわるこの空間の所有者に合わせて可視光3原色の祖先型――G型星育ちの眼はここM型星の下ではあまりに不便だ――に調整された視覚には、北極の輪郭はほの白くぼんやりと映る。その大気の雲の下、極に丸帽子のように載っているのが北極海だ。そこから赤道へと視線の先の緯度を下げると縁のぼやけがとれ輪郭がはっきりとしてゆく。赤道の上下に帯状に広がるのはほとんど真空の不毛地帯
 遠心力と重力の合力が地表面をポテンシャル等位面にするためにはやや不足する自転角速度は、赤道と両極に「高低差」を生む。極が低く赤道が高い。つまり極から赤道を結ぶ測地線はなだらかに延々と続く斜面になる。ポテンシャルに対して指数的な密度をもつ大気はその峰、赤道には届かない。地表を覆う物質も落ち、剥き出しになるのはこの天体の体積のほとんどを占める光沢のない暗い色の固体だ。

 「ここの太陽が若かったころ、未知種族が製作した楕円体がここに漂流して『捕獲』された、というのが現在最も有力な仮説。同時に重元素に富んだ岩石惑星がはじき出されたと考えればここに本来あるべき金属の乏しさを説明できる」

 軌道上に展開されたプロ―ブ群がひどく大きな多重極成分を持つ重力ポテンシャルの中を駆け回ってせっせと集めたデータは、氷を主成分とするごく薄い地殻直下から中心部に至るまでこの星内部の密度が均一であることを示していた。
 しかしその未知物質は金属ではない。そして系内の外側を回る矮惑星にも金属は多くない。この天体を形作る固体が通常の金属から転換されたものであれば話は変わるが、その線で探ることができるほど研究は進んでいなかった。

 「この天体上に鉱脈はあるのですか?」
 「今のところ未確認。絶対量が少ないうえに、地殻下の活動がないことが影響して鉱物として産出する元素はほとんどない」
 「では……〈深海魚〉の末裔たちが利用できる金属はここにはないのですね」
 
 両極の海に降り注ぐ恒星由来の電磁波は液体状態を保つには不十分だ。近日点で夏――陽光の射し込む角度は90度に近づき極には白夜が訪れる――を迎えるときは温暖だが、冬は圧倒的に不足する。0.71という極めて大きな軌道離心率が影響しているのだ。太陽に最も近づくとき0.9億km、遠ざかるときは5.2億kmと6倍になる。エネルギーフラックス密度はさらにその2乗の逆数の比、近日点に対して遠日点で実に3%にまで減少する。
 加えて歳差運動の周期がおよそ30地球年ときわめて短いため近日点で夏を迎える極は頻繁に交代する。夏の強い光を受けることのできた半球は歳差運動の半周期で入れ替わってしまう。
 しかし海が中まで凍り付くのを妨げる熱源がある。潮汐加熱だ。潮汐力は自転軸を変えるだけではなくわずかに天体をたわませ、発生する熱により液体の海が保たれる。同時に熱量を適度なものにする固体の固さは自転角運動量が持ち去られることを妨げていた。
 奇妙なことに、内部に流体が存在しないにもかかわらず周囲に形成されている磁気圏は、大気の保持に一役買っていた。
 〈深海魚〉たちはその暖かな海の氷冠の下に暮らしていた。真空の壁で隔絶された両極間で大きく形態は異なっているものの、どちらも同程度に複雑な体制だ。両者の間に遺伝的な繋がりが存在することが、太古に両極間の交流があったことを示唆していた。

 「金属なしでは知性の補助具の発達は必ず袋小路に迷い込みます。生体由来の素材では補えません」
 「……介入は慎むべきだ」

 〈深海魚〉の子供たちが知性を獲得するとは限らないだろう。もし「知的生命」が将来出現してもその思考形態は人間とはかけ離れたものになるかもしれない。

 「自らを取り囲む世界を理解するために十分な知性を備えた者が、溢れる好奇心や探求心を満たすための資源の絶望的な不足に気付くとしたら、これほど残酷なことはないでしょう」

(終)



~~~~~~~~~~


 これから上げる記事のためのイントロのようなもの。めちゃめちゃ扁平な惑星、ときたら読んだことのある人にはピンとくるかもしれない。ハル・クレメントの『重力の使命』だ。メスクリンの作る重力場と歳差運動についての考察みたいなものを上げる。上の文中で使った数値はそこで得られた結果を用いて出している。しかし今でも悩んでいるのでしれっと修正するかもしれない(詳しいことは後で書くが、歳差運動の周期、入射エネルギー、表面重力……等を妥当な値にするためにパラメーターを調整した結果やや無茶をしている感が残っている)。
 一応説明してしまうとタイトルは『竜の卵』を意識。バジリスクは雄鶏の卵をヒキガエルが温めることで生まれる、という伝承があるので(「カッコウの卵」だとかわいげがあるなと思ったがカッコウが卵を排除するのは孵化した後だった)。短いのにちょっと仰々しい。

ハダフライ

 2例あれば<故郷なき医師団>が動き出すためには十分な理由になる。
 世界中の医療機関から絶え間なく流れ込む膨大な医学的記録――その大部分は異常性の認められない疾患と外傷である――の中に、10時間の間隔をおいて地球を半周離れた2地点で共通の特徴をもつ変死体が現れたとき、<医師団>の連想マシン"Armchair Doctor"は「敵」の存在を察知した――人類の肉体に対する侵略が始まろうとしている。
 8時間後に日本の千葉県から3例目が報告された時点で調査団の準備は整っていた。本部から派遣された彼らが到着したときには、最近接地の常駐部隊により物理的・情報的封鎖が非常時マニュアルに従い既に完了していた。
 遺体として路上で発見された先の2例と異なり、3例目には発症から死亡に至る一連の過程の目撃者がいた。50代男性の犠牲者の妻である。監察を担当した医師とともにただちに聞き取りが行われた。当該目撃者は調査員の接触時非常に混乱していたが、Glawarcheの安寧/明晰化処置により、発症過程の詳細な口述を得ることに成功した。そこには意識的な回想では見過ごされたであろう最初の兆候が含まれていた。右手の甲に現れた直径1cmの色素斑――しみである。
 患者の自覚症状は軽微な発熱からはじまる。

 「昼食後に『体が熱い』と言っていたので今日はもう布団の上で過ごすようにすすめました。」

 彼女がそう語ったとき時刻は21時、まだ当日の夜であった。
 発熱の2時間後から容態は急激に悪化する。

 「夫はとても息苦しそうでした。あの人自身は気づいていないようでしたが、『ひび割れ』はもう顔にまで薄ら赤い線として浮かび上がってきていました。」

 悲劇的な経験の直後にも関わらず感情をほとんど抑制して彼女が淡々と発症過程を描写できるのは、Glawarche法のためである。異常な光景だが、進行中の事象はそれほどに重大なのだ。
 彼女が語るところによると、「ひび割れ」は皮膚の上に現れる薄桃色の線であり、およそ内径80mmの正六角形の平面充填タイルとして表面を分割してゆく。皮膚のすべてを使い尽くそうとするのだ。実際には体表面は複雑な形状であるため余剰も生じるものの、「タイル」は全身の表面を貪欲に覆ってゆく。分割線は起点から拡がると同時にその線を複雑に入り組ませ、やがてひとつの形状をとる。

 「握っていた左手の肌の質が明らかに変わっていることに気付いたころには夫は私の声に反応しなくなっていました。瞬く間に変化してゆくあの人の姿に茫然としてしまって救急車を呼ぼうという考えすら浮かびませんでした。今思えば何かが手遅れになってしまったことだけは直感していたのでしょう」

 ひび割れは真皮層にまで達する。皮膚の変質は、触感において「硬いゴムのような」「やや乾燥した」と形容された。彼女が混乱の中で見つめたタイル形状の変化が顔面の右側から進行していたことは、起点が右手の甲のしみにあることと符合していた。
 「羽化」は全身の皮膚の変性が完了した段階で一斉に始まる。タイルが縁から剥離し、鱗翅目――蝶のような対の羽がゆらゆらと全身で立ちはじめる。
 
「すがるような気持ちで元のままかもしれない背中の側を見ようとしました。上半身を起こしたとき体は奇妙に軽く感じられました。しかしそこにも蝶は生まれてきていました。」

 皮膚から生まれた蝶の群れは肉体の残りの部分も無駄にはしない。体液を吸い肉をむさぼり骨をかじり腹にその栄養を蓄えると、ふた回り大きく手のひらほどになった羽で生前に犠牲者が身に着けていた服を抜け出し飛び立つ。後に残るのは栄養に乏しく薄いピンクをした人の輪郭をかろうじて留める滓のみであった。

 先の2例と同じだ。乱されていれば人が消えたことすらわからなくなっていただろう。行方不明として処理された犠牲者が陰でもっと多く発生しているかもしれない。
 飛び立った蝶はどこへ行ったか?犠牲者の家の周囲では空高く飛んでゆく薄褐色の蝶の群れが目撃されていた。その点で封鎖は失敗しているのだ。
 さいわい犠牲者の部屋で1個体の未熟なまま活動を停止した蝶が回収された。いびつな形状はタイル充填の不整合による体形成の失敗を示していた。サンプルは研究所へ直ちに送られ、分析にかけられた。残存DNAは犠牲者のものと一致した。
 また上空で展開された<医師団>所有の捕虫ドローンはおよそランダムな方向に飛翔する活動個体の観察と回収に成功、さらに変死体の発見が報告されていない地域の上空では未確認の犠牲者のDNAを持つ蝶が捕獲された。その数は10を上回っていた。
 パンデミックが発生しようとしているかもしれない。
 これをもってまもなく事態は脅威度S7に引き上げられ、<無名>の使用を含む実験計画が承認された。

 "Armchair Doctor"は調査報告を受け取ると、すぐに「しみ」と5日前に観測されたコヒーレント性の高い4つの波長の紫外線との関連性を予見した。

 <医師団>の擁する天文監視班は地上と軌道上に望遠鏡を展開し、常時人類への脅威となる天体的事象の監視を行っている。地球-太陽系L1点に配置された<常昼>衛星は、「大気の窓」をかろうじて通り抜ける比較的透過性の高い紫外波長領域の電磁波にコヒーレント性の高いものを数イベント捉えた。パルスの欠落と不明瞭さが詳細な解析を阻んだが、データの蓄積によりそこにコードされているものがあることが発見された。何かが太陽から送信されている。

 "Armchair Doctor"は生物体への「コード紫外線」の照射実験計画を提案した。同時に大まかに異なる8つの方針を持つ計画が提出され実行されたが、結局のところ「正解」はこれだったのだ。

 照射実験はまずマウス、ウサギ、カニクイザルを含む哺乳類に対して行われたが、通常紫外線の曝露を受けた時と同様の症状が現れたのみだった。
 次に行われた実験では人造ヒト皮膚シートにコード紫外線が照射された。結果は劇的なものだった。条件の整えられたシートの全てに異常な硬化とその周囲に拡がるひび割れが観測された。ひび割れ起点から分離された異常な分子はそれがコード紫外線由来であること示していた。このときコード紫外線は4本が同時に揃って1mm以下の近傍に当てられることが必要だった。4つのコード紫外線はヒトの皮膚に特異的に反応しひび割れを誘発するのだ。
 <無名>への照射実験は皮膚の異なる部位に対して行われたがいずれの条件でも「羽化」が起こった。しみのできる場所には依らないらしい。
 こうしてコード紫外線の潜在的危険性が明らかになった。日光を浴びる全人類の皮膚が「羽化」してしまわないのは専ら4本のコード紫外線の欠落によるものだろう。完全な形で地表に到達する確率は極めて低いのだ。
 同時に進行していた実験から明らかになった事実として、「蝶」をすりつぶした懸濁液の皮膚への注射でも「羽化」が起こることが確認された。コード紫外線により形成される分子が感染性を持つのだ。しかし通常の接触、摂食では「羽化」は起こらなかった。予想される患者の潜伏期間の短さ、致死率の高さ、現時点で確認される蝶の行動パターンを考慮するとヒト-ヒト感染によるパンデミックの危険性は低いと考えられた。

 原因が突き止められてゆけば対策への道が開けてゆく。このとき天文観測班からの凶報として太陽にも「しみ」が増え始めたことが報告されていた。黒点の増加が示す太陽の「敵意」――コード紫外線の増光の兆候。時間はない。直ちに防護作戦を実行せねばならなかった。

 実行に移されたのは<日焼けどめ>作戦だった。毒を以て毒を制す――<医師団>の秘密裡に散布したウィルスは人類を永久的に作り変える。導入された遺伝子はコード紫外線分子の産生を妨げるものだ。
 最初の犠牲者の報告から3か月後に異常な太陽フレアが発生した。それは地表にコード紫外線の雨を降り注がせたが、被害は非異常性のもの――とはいえ損失は甚大であるが――に留まった。<医師団>は人類を肉体の侵略から守ることに成功したのだった。

 謎はいくつも残る。なぜ太陽がヒトを「知っている」のか?蝶はどこへ飛んでゆくのか?
 <日焼けどめ>作戦までに世界で1000の犠牲者が出たが、太陽フレアが上空の蝶の活動を停止させたことが観測から明らかになった。地球重力圏を抜け出した個体はいるだろうか?そうした例は今に至るまで発見されていないが――。
 <医師団>の把握できていない破壊思想団体、敵意を持つ異文明等の存在が仮説として立てられたが、どれも現時点での検証は困難だった。いずれにせよ<故郷なき医師団>の使命は、肉体を狙う脅威から人類を保護することなのだ。

(終)

~~~~~~~~~~

 生きている人のものではなくなった皮膚ってグロテスクだよね、というのが主に言いたいことだがとりわけ強く主張したいことでもない気がしてきました。140字で書いておけばいいような話だが実際半年くらい前に似たようなことを書いていたのを確認した。蝶型の平面充填タイルの形は?紫外線で媒介されるウィルスは可能か?……知らない。(しかし今思えば『エターナル・フレイム』のあれそのものだ。肌から飛び立つ蝶のイメージというのも感染源がある可能性が出てきたぞ。)

 『ブラッド・ミュージック』で人の肌の色の膜が都市を覆うというようなイメージ(だったはず)があったが、あの何とも言えない気持ち悪さというのは、もはや人のものでない皮膚のグロテスクさから来ているのだと感じる。

 書きながら突然思い出した。『ブラッド・ミュージック』を読んだあとに見た夢で、肉ではなく皮なのが薄気味悪さを与えていてよいと講釈を受けるという場面があったのだった。どこかにメモしているはず…。どういう夢なんだか自分でもわからないが強い印象を受けたのは確かだったようだ。

 やや意味が変わるが人の肌をもつ獣というのもおそろしい。スティーヴン・バクスターの『真空ダイヤグラム』中の一篇に、人類の生き残りのために用意した世界にヒト由来の獣やメラニン色素の植物を住まわせるという場面があったが、なんとも趣味が悪くて好きだった。バクスターの作品にしばしばグロテスクさの追求が見られるという話を思い出す。

 人肌のコウモリ、人肌の豚ブタ、人肌のライオン、人肌のイルカ、人肌のタコ、人肌の人肌の人肌の……
 人の目で見つめてくる人肌のカエル。人の歯がのぞく口をぱくぱくさせて集まってくる人肌のコイ。

 人皮装丁本というものがありますね。(ゆゆ式7巻p.80!)人の皮のランプシェードというのも猟奇的事件などの話の中でやたらよく語られる。人皮の太鼓、人皮の帆船、人皮のベッド……

 そもそもグロテスクさというのは「人に近いもの」に感じる性質なのだから進化レベルで当然のことなのかもしれませんね……と言うのはやや浅はかか。

『エターナル・フレイム』-ベクトル-レフトル-ライトル

 グレッグ・イーガンの<直交>三部作の第2巻『エターナル・フレイム』をよみました。

 最高だった. 科学を開拓していく物語がこんなにもおもしろい. 実験, 分析, 発見…のコンボが次々にくりだされ科学それ自体が物語になっている.

 人間離れした(※人間じゃない)頭のいい科学者が新しく発見された難しい問題を前にして難しい議論をしていく。凄まじい理解に至り超高速で新理論が打ち立てられる。見渡す限りの記念碑的偉業。記念碑の森。

 板倉先生が書かれていることの受け売りだが, ヒト世界の量子力学黎明期の奇妙な実験結果とそれを説明できる理論の発見による驚きの追体験が, カルラ・パトリジア・ロモロたちの活躍する物理学パートの軸になっている.

d.hatena.ne.jp

 その実際の歴史もある意味でこちらの宇宙の"設定"を読み解いていくという物語だった. 『エターナル・フレイム』では, 科学者たちの導きにしたがって本当にあの宇宙の設定を読ませてくれるという体験を味わわせてくれる. すごい.

 くわえて, 第一巻『クロックワーク・ロケット』から貫かれているテーマとして, 幾何学的な原理から物理法則を説明できる点がますます強調されている. あとがきにも書かれているとおり, ヒト宇宙と大きく異なる電磁場, もとい"光の場"の性質のせいで電子機器を使えない(それでロケットが「クロックワーク」なのだった). そのため観測手段が制限され, 現象の観察から大きく跳躍し"幾何学をたど"ることで基礎方程式に着地することが不可欠かつ強力な方法になるのだ. このあたりの事情は『白熱光』の"ザックの原理"などと比較できそう. スプリンターの小さな科学者たちも(物理法則の制限はないが)電子機器を持たなかったどころか光学すら未発達だった.

 一番それが色濃く出ているのが第33章. 次のような印象的な文がある.

パトリジアは呆然としたようすで、「幾何学をたどっていくとすべてがうまくおさまるんですね」
そしてカルラと視線を交わした。こういうことが起こるのをふたりが見るのは、これがはじめてではないが、幾何学をたどるという手法の持つ力は、今回はとくに圧倒的だった。

 "ベクトル":四元数が所与の数学的道具だったために, "あっけなく""レフトル・ライトル": スピノルの発見に至った過程がこの章前半で描かれている. その"あっけなさ"を示すために3人の会話が強烈なものになっているのも愛嬌.*1

 ともかく,実は<一の法則>であった<二の法則>や, 光学固体のエネルギー準位の分裂の観察から輝素波を記述するレフトル・ライトルの方程式に到達するこの過程は圧巻. 補遺2以上の基礎知識が仮定されている気もするので補間しつつ読んでみる.

 その前に著者解説ページ. 作品内で触れられたことより豊富な内容を含む. 正直到底「読んで理解した」とはいえないが以下に書いた作品の解釈が間違ってなさそうだぞという程度の確認はできた.
gregegan.customer.netspace.net.au

 なお自然単位系を使わずに

c:青色光速
h:パトリジアの定数(プランク定数)
ħ:パトリジアの定数÷(2π)

をいちいち書くことにする.


四元数

四空間における回転を記述するもっともかんたんな方法はベクトルの乗算と除算であり、
そのルールを思い出せるようカルラは表を胸に描書した。

 補遺3で説明されている通り, 早い話がこのベクトルというのはハミルトンの四元数だ. この部分以降"ベクトル"という語はおおよそ"四元数"の意味になっている. しかし, あえて"四元数"を使っていない*2のでここでもなるべく作中の議論に沿って考えてみる.

 補遺3に書かれている内容がほぼすべてだが一応基本事項をさらっておく.

 "四ベクトル"の4次元実ベクトル空間としての基底は<東>,<北>,<上>,<未来>の4つ. この記事ではEast, North, Up, Futureを略記してE,N,U,Fとする.

 ベクトルの和は単にベクトル空間の元として和をとればいい. 作中では<東>,<北>,<上>,<下>の逆元に対して<西>,<南>,<下>,<過去>の呼び名が与えられているが,使わないでおく*3.

 ベクトル空間として特殊なのはベクトルとベクトルの積がベクトルになる演算が定まっていること. カルラが"描書"したのは基底間の乗除についての表だった.

 各升目は"横×縦"を表すことに注意. 積は非可換!.

f:id:shironetsu:20160830165205p:plain:w300

 ここでは乗算しか書かないが, 除算は積についての逆元を右からかけるだけである. 積の単位元Fに対してE,N,U,Fの逆元が-E,-N,-U,Fになることから定まる.

 慣例に従い積の記号"×"は以下省略することにして, より一般に,ベクトル v = aE+bN+cU+dF を考える. 共役なベクトル v* は v* = -(aE+bN+cU)+dF で定まる. またノルム, 長さを|v|=√(a^2+b^2+c^2+d^2)で定める. このとき成り立つのが以下の関係.

f:id:shironetsu:20160830181919p:plain:w250

 さてここまでは「うまく体になっていてすごいな~」程度のことだが(語弊), 4次元空間の回転と結びつくことですばらしい威力を発揮する.


SO(4)

いかなる回転も、あるベクトルを左からかけ、別のベクトルで右から割ることで実現できる。
このふたつのベクトルの選択が全体の回転を決定する。

 以下の定理によって左ベクトルqL・右ベクトルqR対と4次特殊直交群SO(4)は準同型になる. つまり4次元の回転と四元数の組が対応する.

 4次元ユークリッド空間の点(x,y,z,ct)とベクトルx=xE+yN+zU+ctFを同一視する.また,ベクトルqLとqRを長さ1の単位ベクトルとする. (qL,qR)の集合は積について群になっている.
このとき,

f:id:shironetsu:20160830165327p:plain:w250

となる一次変換A(qL,qR)が存在し,

f:id:shironetsu:20160830165336p:plain:w250

は核を{(1,1),(-1,-1)}とする準同型写像である. A(qL,qR)は直交変換になっている.

 あまり細かく証明してもしかたないので直交変換になっていることだけ確認しておく. ベクトルvとwに対してvw*の<未来>成分Future(vw*)はユークリッド空間の標準内積になる. したがってAが直交変換であることを確かめるには内積が保たれることを見ればいい.

f:id:shironetsu:20160830165352p:plain:w400

ちなみに単位四元数とSU(2)が同型であり, SU(2)×SU(2)がSO(4)の普遍被覆群になっている, ということらしいが連続群のことばは全然知らないのでやめとく.

 ベクトルの回転についてのこの関係により, 座標変換

f:id:shironetsu:20160830165405p:plain:w250

に従ってベクトルの基底が変換され,

f:id:shironetsu:20160830165445p:plain:w250

となることがいえる.


ふたつの複素平面

複素数のペアがあるとき、その両方にマイナス一の平方根をかけたら、ふたつの数は別々に
影響を受ける。ふたつが混ざることは、いかなるかたちでも起こらず、単にそれぞれの複素平面が四分の一回転し、実数が虚数に、虚数が実数になるにすぎない。従って、もし四空間のふたつの平面をふたつの複素平面として扱うのなら、それに等価ななんらかの演算が必要になる」

 この部分では四ベクトルを2成分複素ベクトルと同一視するために, スカラー倍について検討している. 結果, √(-1)倍:各複素平面での四分の一回転は左から<上>をかけるか, 右から<上>で割る操作をすればよいことを見つけている. 後で採用しているのは結局右から<上>で割るほうなのでそれについて見てみる.

 v=aE+bN+cU+dFとしよう. 次のように2成分複素ベクトルと対応させる. 以下いちいち√(-1)と書くのはE,N,Uと混同させないため.これらはあくまで別のもの.

f:id:shironetsu:20160830165534p:plain:w300

z=x+y√(-1)とする. vを2成分複素ベクトルとしてz倍するには,

f:id:shironetsu:20160830165542p:plain:w250

とするとうまくいく.ただし左辺が(複素ベクトルとしての)スカラー倍で右辺がベクトル積. 確認してみよう.

 まずベクトルの積として.

f:id:shironetsu:20160830165554p:plain:w500

 次に2成分複素ベクトルとして.

f:id:shironetsu:20160830165605p:plain:w350

 2つの方法でスカラー倍が一致するためvを2成分複素ベクトルとみなすことが正当化される.

 スカラー倍は2つの複素平面内で独立に回転させるのみで, E-N平面とU-F平面を"混ぜない"

 しかしこれは回転と可換にならない――ベクトルをユークリッド空間のベクトルとみなす限り. つまり複素数倍を考えるためには, "ベクトルでないもの"を考える必要がある.

「つまりマイナス一の平方根をかけるのになにを使うにしろ、回転してからかけるか、
逆の順番でやるかにかかわらず、答えは同じにならないといけない」

 そこでパトリジアが思いついたのがレフトルライトルだった. 最高のネーミング.

「通常のベクトルが左からなにかをかけて右から割ることで回転するのに対し、この新しいもの――"左方ベクトル"(レフトル)とでも呼びましょうか――は最初の演算子か受けつけません。割り算については忘れてください」

 カルラはいった。「そんなことはない。関係は単純なものよ」
 カルラは書いた。


  ベクトル=レフトル÷ライトル


 「これだけ」 カルラはいった。

 ここで発見されたベクトルでないものたちは座標変換に伴って次のように変換する.

f:id:shironetsu:20160830165649p:plain:w300

 作中では"レフトル÷ライトル"がベクトルになるとされているが, "レフトル×共役ライトル"のほうがやりやすい気がしたのでこちらを選んだ.

 ここから物理の話になっていく. 輝素波の方程式を, 4次元の幾何学に従うものするなら可能性は限られる.

 カルラは、場のレフトル、ライトルとエネルギー・運動量ベクトルの関係を、もっと伝統的な形式に変換した。そこではエネルギーと運動量は、それぞれ波の時間方向と空間方向の変化率から計算される。

 "伝統的な形式"(traditional form)ってなんやねんという感じなのだが, ヒト宇宙の物理も盗み見するとここで導かれた方程式は分かる. さらっと書いたのは簡単さであるためというよりはレフトル・ライトルほどの驚くべき発想ではないことが理由な気がするがどうか.

 まずレフトル・ライトルに働く線形作用素pを考える. 変換則が

f:id:shironetsu:20160830165733p:plain:w350

のようにベクトルになるとすると,

f:id:shironetsu:20160830165742p:plain:w400

によってそれぞれレフトルをライトルに,ライトルをレフトルに移す作用素であることがわかる.

 pがエネルギー・運動量ベクトルであるとすると, 輝素の運動量-周波数関係から

f:id:shironetsu:20160830165754p:plain:w350

の置き換えができる. さらに形式的に

f:id:shironetsu:20160830165806p:plain:w250

の置き換えができるため, エネルギー・運動量ベクトルと質量の関係から,

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がここで得られる方程式ということになるだろう. この方程式は点なしスピノルと点付きスピノルの連立方程式として書いたときのディラック方程式に相当するもののよう.

 さてライトルはレフトルに縛られるため自由度は2だけになる. この自由度によって, 光学固体のエネルギー準位の分裂を説明できることが期待される.


角運動量

「新しい波動方程式でこの軸のむきが保存されるか、確認する必要があるわ。じっさいにジャイロスコープの軸のように保存するのかどうかを」

 状態の時間変化を知りたいため,次の表記を導入する.

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 ただし,

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積の同一の添え字については1~3に渡って和をとる.


SはSpace(空間)のSを意図している. S is for Space. ヒト世界数学でいうところのパウリ行列÷√(-1).

輝素波の方程式は

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と書ける. ハミルトニアン*4

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とすると, レフトル・ライトルのペアについて

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がその時間発展を決める. ただしここでは(最初から)自由な輝素波を扱っている.

 軌道角運動量との交換子*5を求める.

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つまり軌道角運動量は保存しない.

 そこで「自転」;スピン角運動量Σ*6を導入しその寄与を考える.

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 このΣに角運動量を名乗る資格があるのは角運動量の代数をみたすため, ということらしい.

 ハミルトニアンとの交換関係は

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となる. これによって

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から"軌道角運動量+自転角運動量"が保存する.

最終的な計算結果は、輝素の軌道角運動量がそれ自体では保存されないことを示していた。しかし角運動量の半分の単位を輝素自体に持たせて、その量*7は固定されるが向きは偏極の軸とともに変化できるようにすると、ふたつを組み合わせた量の変化率はゼロになり、合計の角運動量は保存された。

 ここから光の場の中で輝素がとる状態, 光学固体中のエネルギー準位のスピンによる分裂等を計算していけるはずだが, 力が足りないのでいずれこちら側宇宙のことを学んでから挑戦したい. というか解を求めないことには意味がないので早くやりたいが道が険しい.

 ロモロはカルラを見あげた。
 「これでエネルギーがスピンにどう依存するかを定量化できますね? 新しい波動方程式が、それを可能にしてくれる!」
 カルラはいった。 「それはまた明日」


参考
 はるか昔に4+0次元ディラック方程式について検討されていたらしい方のページ.
http://kuiperbelt.la.coocan.jp/sf/egan/orthogonal/dirac-orthogonal.html
 『ディアスポラ』も詳しく考察されている方. 『エターナル・フレイム』で引っかからないのはもったいないため貼っておく.


妄言
 SO(4); Special-Orthogonal-(Four)のSFなのでSFのSFだ. "S is for SO(4)"でググったりした. 絶対どっかで言われていると思う. どうでもいい.
 Greg Egan’s Home Pageから読める短編"In the Ruins"もSFのSFですね, というのは軽くネタバレ.
gregegan.customer.netspace.net.au


早川書房公式の紹介ページ
www.hayakawa-online.co.jp

*1:あまり出番がない, というかいるのかいないのか分からない記録学者のオネストだが, 控えめながらも思慮深さを感じさせる彼の姿はいいですよね. 訳者あとがきで山岸先生が触れられているように, 彼が最後に語ったことは, 理論や技術が一歩前進するための駆動力,科学者たちの思考の過程をたどることの意味とこの作品のありかたについての説明を含むのだろう. そのうえで思ったのは, 苦労は多くも発見がとんとん拍子で進んでいくようにも見えてしまうのは"編集"を受けているからためだという作者の弁明も含むのかなぁなど.……ううむ, ちょっと失礼か.

*2:ヒト世界の術語を作中で使うか否かの線引きはちょっと面白い. 人名が入るものは当然使わない.ポアソン方程式, パウリの排他律, ボソン・フェルミオン等.  "レーザー"を頑なに使わないのは, 名称の由来がLight Amplification by Stimulated Emission of Radiationのアクロニムであまりに英語に寄りすぎているからじゃないかと思う.  "四元数"(quaternion)を避ける理由はあまりはっきりしないが, スカラー(複素数)倍と単なる四元数の乗算を混同しないようにする目的はあるかも?

*3:というか美的感覚はともかくこれら4ついらない

*4:カルラたちが各物理量を求める方法についてはあまり明確にされていない……気がする. しかしなんにせよヒト世界量子力学と等価な方法で計算しているのはまちがいないのでここでディラックハミルトニアンを持ち出す.

*5:そういえば交換関係とかいった言葉も作中に出てきていない. 全般的に,一度数式に翻訳することさえできればそれを解くための数学的技法は本質的ではないのでそこでいちいち躓かないというような描き方がなされている気がする.調和振動子の問題とか一瞬で解いている(ように見える)し.

*6:SはSpaceのSとか言って大文字Sを使ってしまったのが健康に悪く, ふつうここには記号Sを使うところだが逆転させた.

*7:amountの訳だが, たぶんスピン角運動量の2乗和のことなので「総和」とかのほうがそれっぽい, と思う.

〈蚊の禿〉とは

 先日ストルガツキー兄弟の『ストーカー』を読んだ。「未知との遭遇」ものの古典とのことだが、簡単にあらすじを書いておく。


~あらすじ~
 地球を訪れながら、地球人とのコンタクトを行わなずに去った「来訪者」。彼らは地球上のいくつかの地点を、異常な現象の発生する危険な土地「ゾーン」に変え、そこに人類には未知の原理に基づく謎めいた物品の数々を残していった。レドリック・シュハルトは立ち入り禁止となっているゾーンに不法侵入し、それらの収集と闇市場での売却を生業とする「ストーカー」の一人である。ゾーンからもたらされる物品による恩恵、人類に与える不気味な影響、来訪の意味――謎は謎のまま、しぶとく生きるレドリック達ストーカーを中心に、ゾーンを巡る人々の姿が描かれる。


 この作品最大の楽しみの一つは、何といっても少しでも扱いを間違えばたちまち人を死に至らしめる来訪者の遺物の数々だろう。ゾーンのひんやりとした不気味さと相まって、用途も原理も不明な物品がばらまかれている風景はとても魅力的だ。〈空罐〉、〈熱い綿毛〉、〈悪魔のキャベツ〉、〈魔女のジェリー〉、〈蚊の禿〉〈黒い飛沫〉、〈ムズムズ〉、〈適量〉……ストーカー同業者間での通称とされるこれらの名前。山括弧でくくれば何でもかっこよくなると思いおってからに~~!!!だいすき~~!!!命名の由来がきっちり分からないところもまた空想の余地があってそそられる。


 ところで原語はロシア語である。あとがきにも書かれているが原題は≪Пикник на обочине≫:「路傍のピクニック」。そのためこれら固有名詞は元はだいたい二重山括弧でくくられている。


≪Пустышка≫:〈空罐〉
≪Ведьмин студень≫:〈魔女のジェリー〉
≪Комариная плешь≫:〈蚊の禿〉
≪Зуда≫:〈ムズムズ〉


――といった具合。ロシア語版Wikipedia(Википедия)の記事のАномалии(異常現象)、Артефакты Зоны(ゾーンの人工物)の項目に一通りまとめられている。僕も全部読んだわけではないが……。
Пикник на обочине — Википедия


 さて本題に入る。気になるのは〈蚊の禿〉だ。ゾーン侵入の洗礼を与えるように浮上車〈フライング・オーバーシューズ〉に乗り込んだレドリック・研究者キリール・テンダーを待ち構える重力異常である。読んでいけば命名の由来が少しは掴めるようになるかと期待していたが、最後まで分からない。その姿と作用が比較的分かりやすく描かれるのに反して呼び名のほうははっきりしないのだ。なぜ〈蚊の禿〉? 蚊柱のようなひずみが目に見えるのかなと想像したこともあったが、読む限り完全に不可視だ。


 一方、科学者(レドリックに言わせると「石頭」)たちによる呼称は「重力凝縮場」≪гравиконцентрат≫。そのまんまだ。


 ロシア語版ウィキペディアの記事を見たのもこれが気になってのことだったのだが、素直な訳であることが分かっただけだった。Комарはずばり「蚊」。Комариныйで形容詞化され、плешь:禿にかかってまさしく「蚊の禿」。うむむ。


 いちおうこれらの語が出てくる部分をロシア語、日本語、英語で引用しておこう。特に手掛かりが得られるわけではないが。引用元は、ロシア語・英語がWikipediaの参考にも挙げられている以下のサイト。原語版に英訳が並べられている(ところでfull textを読めるのは何故)
Пикник на обочине – Roadside Picnic


 日本語は深見弾訳(1983)『ストーカー』(早川書房)。新版が2014年に復刊されているがその前に古本で買ったもの。何年本棚で眠らせていたんだ。新版は訳は特に変更されていないとのことだが未確認*1


「重力凝縮場」

(ロシア語)
― Теперь самым малым веди ≪галошу≫ к этой гаечке и в двух метрах до неё не доходя остановись. Понял?
― Понял. Гравиконцентраты ищешь?
― Что надо, то и ищу. Подожди, я ещё одну брошу. Следи, куда упадёт, и глаз с неё больше не спускай.


(日本語訳p.41)
「それじゃ〈オーバーシューズ〉をあのボルトのところまで持っていくんだ。ただし、二歩ぐらい手前で止めろ、ぴったりくっつけるな。わかったか?」
「わかった。重力凝縮場を探しているのか?」
「おれが必要だと思うものを探しているんだ。ちょっと待った。もう一個投げる。どこへ落ちるかよく見ていろ。ボルトから絶対目を離すな。」


(英語訳)
"Now drive the boot at the lowest speed over to the nut and stop two feet away from it. Got it?"
"Got it. Are you looking for graviconcentrates?"
"I'm looking for what I should be looking for. Wait, I'll throw another one. Watch where it goes and don't take your eyes off it again."


〈蚊の禿〉

(ロシア語)
― Стой, ―говорю. ― Ни с места…
А сам взял пятую и кинул повыше и подальше. Вот она, ≪плешь комариная≫! Гаечка вверх полетела нормально, вниз тоже вроде нормально было пошла, но на полпути её словно кто-то вбок дёрнул, да так дёрнул, что она в глину ушла и с глаз исчезла.


(日本語訳p.42)
「止めろ。このまま動かすな……」
五つめのボルトを手にとると、少し高く、遠くへ投げた。そら、あれだ、〈蚊の禿〉だ! 上へ飛んでいくときは普通の飛びかただった。落ちてくるときも途中までは異常がなかったが、不意にひったくられたように脇へ外れたのだ。そのひったくられかたがあまりにも激しすぎたので、粘土の中へもぐってしまって見えなくなった。


(英語訳)
"Hold it," I said. "Don't move an inch."
I picked up another one and threw it higher and further. There it was, the mosquito mange! The nut flew up normally and seemed to be dropping normally, but halfway down it was as if something pulled it to the side, and pulled it so hard that when it landed it disappeared into the clay.

 (※太字は引用時に施した)

 英語版は訳がいくつかあるようで、新しいものでは"bug trap"の訳もあった。全文は公開されていないがサンプルページに載っている。
Roadside Picnic | Independent Publishers Group


"Bug trap"とするとその性質と結びついてなかなかしっくりくる。まさしく罠だ。しかしкомариная плешьの訳としてはかなり離れてしまっている。


 上に引用した訳では"mosquito mange"になっている。Mangeは(人以外の)獣の疥癬の意味で、「禿」そのものとは少し違う。しかし疥癬がダニの一種によって引き起こされるものであるから、それの「蚊の疥癬」とすると医学用語的な響きを持って、もしかするとそういう術語があるのかもと思わされる。


 ところでкомарを露語辞典(博友社ロシア語辞典)でひくと、成句に≪Комар носу/носа не подточит≫が口語マーク付きで挙げられている。意味は「一点非の打ちどころがない。」


 これについて検索してみると、次のような記述があった。
「ロシア語一”語”一会」
http://www.h5.dion.ne.jp/~biblio/nasu/nasu59.html

Комар носа (носу) не подточит.
意味は「文句のつけようがない」
製品を作るとき、蚊がその鋭いくちばし(нос)を突き刺せる傷がないほど表面を滑らかに仕上げたことに由来する。

 これを見ると、комариныйには、もしかするとこの成句に由来して「完璧な」の意味を持たせているのではないかという考えが浮かんでしまう。しかし辞書的にはこの形容詞に本来そういう意味はなく、検索してもそういった用例は見つからない。もっとも、ロシア語の文章を探す能力はあまりにも乏しいのだが……。


 仮にкомариныйがそういう意味だとすると、≪Комариная плешь≫は「つるっ禿」といったところだろうか。「禿」とのつながりでしっくりとくるのは確かだ。


 ではもし「つるっ禿」ならこの呼び名をつける理由は何だろう?


 作中での描写を思い出すと、「重力凝縮場」はブラックホールを思わせる。ところでブラックホールには「ブラックホール脱毛定理」なるものが知られている*2。いわく、ブラックホールの事象の地平面の外側から観測できる量は質量・電荷角運動量に限られる。もし三つの量すべてがゼロなら「つるっ禿」になるのではないか。


 ただこの見方は問題がある。「ブラックホール脱毛定理」自体は1960年代後半から調べられていたらしいとはいえ、≪Пикник на обочине≫の発表が1972年であることを考えると、学術界の外で用いられる表現としてはやや無理があるようにも思われる。

 ……と思っていたが弟ボリスБорис Натанович Стругацкийはレニングラード大学(現サンクトペテルブルク大学)で天文学を学び、1955年に卒業したあと1966年までプルコヴォ天文台天文学者・コンピューター技師として働いていたらしい。全く「外」ではないどころかおそらく最先端に近いところにいたはずだ。
ストルガツキー兄弟 - Wikipedia
「Talkingheads-series ストルガツキー兄弟・紹介 - アトリエサード
http://www.a-third.com/th/author/strprof.html
Братья Стругацкие — Википедия

 なお、兄アルカジイАрка́дий Ната́нович Струга́цкийは軍で日本語通訳者として働き、のちに日本文学研究者として安部公房『第四間氷期』などの翻訳を手掛けたそうだ。


 〈蚊の禿〉の意味。40年後の非ロシア語話者にそう誤解させてしまうような楽しい偶然、というところで納得しかけて他の説明を探そうとしたがかなり魅力的な説のように思われてきた。むしろ正誤はともかく遥か昔に言及されていそうだ。これに関する記述があれば教えていただけるとありがたいです。


ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

ストーカー (ハヤカワ文庫 SF 504)

(映画もいずれ見ておきたいですね。)


追記(2016/08/19/21:33)
 @biotitさんにご指摘をいただき、≪комариная плешь≫が既に一つの成句で「つまらない」「取るに足りない」等の意味があることを知った*3。これはちょっとお粗末だった。調べるとたとえば次の同義語辞典が出てくる。
комариная плешь - это... Что такое комариная плешь?
ゾーン内のアノマリーの中でもありふれたつまらないもの、と思うとしっくりくる。


 思い返せば〈空罐〉:≪Пустышка≫は、пустой:「空の」「無意味な」に指小辞-шкаがついたもので*4、こちらにはありふれたアーティファクトであるという意味も込められていそうだ。実際に「空っぽ」であることに加えて。


 明らかな手抜かりのあることが発覚してしまい、「説得力のあるこじつけ」の感を強くしたので取り急ぎ追記した。ただ、あえてこの慣用句を選んでいる理由に〈空罐〉同様二重の意味が与えられている可能性はまだ捨てがたい。


 より広範な問題として、「SFの中に登場するブラックホール」の歴史を知る必要もありそうだ。

*1:この記事で修正すべき場所など見つかればそのときは書き直します。

*2:数学的に証明はされておらず厳密には定理ではない、ということがWikipedia英語記事などに書かれている。 No-hair theorem - Wikipedia, the free encyclopedia

*3:https://twitter.com/biotit/status/766586552327610368?lang=ja

*4:ちなみにпустышкаは辞書には「おしゃぶり」の意味で載っており、画像検索するとずらっとおしゃぶりが並ぶ。

進化の産物であること

 戦死した兵士が折り重なる戦場、骨の形が皮に浮き出た遺体の埋められた虐殺の跡、無差別テロの犠牲者が横たえられたベッドの並ぶ病院の一室……大部分が前世紀の写真である中、今世紀に入ってから撮影されたと思われるものも含まれているのに全てモノクロで統一され粗めに加工されているのは、精神的刺激を弱めるためだろうか。少なくともこういった画像に慣れない私にとっては意味のある配慮だった。遺体の画像がスクリーンに映されることは予め告げられていたため、心の備えもできていた。
 しかしこうして映し出された写真を、小さめの会議室で私が見せられている理由がまだ分からない。
「苦難の原因は何にあるのでしょう。」
彼の口から次の言葉が出てこないことからそれが実際に私に向けられた質問であることが分かった。
「悪意……ですね。人の悪意。」
期待されているであろういくつかの選択肢の中に含まれているはずの当たり障りのない答え一つを返した。話の行く先が明らかになるまで態度は変えないでいるつもりだったが、内心は混乱と胸騒ぎで落ち着きを欠きつつあった。スカウトとは彼らの信じる宗教への勧誘だったのか?これと似た問答は自宅の玄関口で経験したことがある。こういうとき話を断ち切ることができない自分の性分を後になって嘆くのだ。それとも最低限の感情移入能力とモラルの有無を見るための心理テスト?
「その通りです。」
 私の返答に一言だけで素っ気なく応じながらリモコンを操作して次のページに移ると、スクリーンに映っていたのは地震で崩壊したどこかの国の街やベッドに寝かせられた遺体――しかし今度の病室はもっと粗末で、周りの防護服に身を包んだ人々の姿から感染症の死者であることが察せられた。つまり天災や伝染病の被害の跡を撮影した写真だ。人の力では抗いがたい脅威。宗教的色合いが濃くなってゆくことに警戒しながら彼が話を再開するまでの沈黙を待った。
「人間の肉体の脆弱さや精神的な未熟さ、そういった先天的な性質が悲劇の原因です。」
 こうして説明するのはこれが初めてではないはずだ。無意識の演出なのか、スクリーンから振り返ってこちらと目を合わせ、強調するように次の言葉につなげた。
「そして苦痛は我々が進化の産物である以上必然的に備える情動です。」
 進化。その単語でここがどういった施設であったか思い出された。多少宗教がかっていても何ら不思議はない。拡張生物倫理機構――物理学者である私が招かれてやってきたこの会議室は、その国際組織の施設の一室だった。

 人工食用肉の発明と生産技術の進歩は食生活を大きく変えた。
 食肉を工場で生産することが試みられたのは近年が初めてではない。しかし家畜の筋肉をシャーレ上で組織培養できる程度の大きさではなく、食用に適するほどの大きさにまで成長させるためにはいくつもの課題を解決する必要があった。重力に耐え立体的に成長させること、栄養や酸素が細胞全てに行き届くようにすること……これらの困難は同時に、人工幹細胞によるヒト人工臓器の作成を目的とする医用工学の領域の抱える問題でもあった。そして後者には先進国の期待と需要があった。急速に発展した再生医療の分野で得られた技術のいくつかは、ほどなくして家畜の筋肉の人工的成長に転用できることが見出された。当然ヒト用の技術がそのまま使えるわけではない。だが最大の課題のいくつかは乗り越えられてしまっていた。
 食糧供給の全く新しい形態を目指す野心的な食品会社はこれに目をつけ一層研究を押し進め、ついに一般消費者向けの製品が市場に出回ることになった。最初の製品は決して安価ではなく、家畜のどの部位に対応するのかも判然としないその筋と脂肪の寄せ集めは味も食感も本物に劣り、由来の不気味さと物珍しさから新しい物好きが手に取る程度の食品でしかなかったが、価格も味も本物に遜色のない基準に至るまでにそう時間はかからなかった。清潔な工場の棚に所狭しと並ぶ、コードの繋がれた透明な箱とその中で育てられる筋肉の赤み――自然とはかけ離れたその生産現場の光景に嫌悪感をいだく者は当初は少なくなかったが、それもすぐに減った。食品会社が宣伝した通り、環境への負荷は牧場肉――「工場肉」が発明されたことによって生じた食肉のレトロニム――より遥かに低いのだ。そして家畜に苦痛を与える過程はもはや工場肉の生産ラインには存在しなかった。
 工場肉が社会に及ぼした影響は経済的な面に留まらない。今や家庭の食卓に載るようになった工場肉。脳を持つ程度に高度な生物から得られる食品を避けることは、その発明以前より遥かに容易になった。肉を食べ続けながら、食物摂取から殺生を切り離すことが可能となったのだ――菜食主義者にならずとも。ヒト以外の生命の倫理について意見することと体が肉食を求めることとの矛盾はなくなった。そして自分の関わらない問題について正しさを要求することは正義感を満たすための手頃な方法なのだ。
 とはいえ、牧場肉がただ単に食材の「自然さ」を求める美食家の嗜好品になってしまったわけではない。牧場肉と工場肉の間の溝は初期より狭まったとはいえやはり深かった。肉食の選択肢が殺生を伴うか否かの二択になってしまうほど問題は単純ではなかったが、工場肉完全移行者たちにとっては違った。
 拡張生物倫理機構の前身は、そういったヒト以外の動物の福祉を求める声の高まりと経済界との間の緩衝材として設置された組織だった。家畜のみならず、およそ生物の保護に関する事柄は全て引き受けることに名目上はなっていたが、実行力はそれほど大きなものではなかった。
 動物の権利問題は特段新しい問題ではない。前世紀から……それどころか人が肉食のあり方を自覚した時から始まっていたことだ。かかる組織が拡張生物倫理機構へと変わったのは何が理由か?それもやはり技術革新だった。

 計算機の性能は、ナノテクノロジーによって半導体の限界を超えて爆発的に向上し続けていた。あらゆる分野の研究者がそれを持て余したりはしなかった。とりわけ計算資源の余裕を渇望していたのが拡張生物倫理機構の主たる監視対象――進化的知性創発主義者だ。
 SETI――地球外知的生命探査――は依然継続されていたが、一世紀前ほどの期待が見られないのも事実だった。ところが人間は自分たちとは異なる由来を持つ知性との接触を求めるものだ。呼んでも来ないなら作ればいい。ヒト以外の知的生命と出会うための最も速い方法は、SETIではなく彼らを生み出すことだった――ソフトウェアとして。
 進化とは個体の集団がトライアルアンドエラーを絶え間なく繰り返した結果わずかずつ環境に適応してゆく遺伝的な形質の変化の蓄積だ。人工知能を開発する手段としての進化的方法は既に試みられていたし、部分的にはいくつもの成果が得られていた。しかしヒトと対等かつ模倣ではないコンタクト可能な知能となると話は違う。
 計算資源の爆発的拡大は、人工生命を進化させるためのフィールドを用意できる段階に達しつつあった。進化を推進するために必要なだけの余裕と、全くの運任せに陥らないようにするための剪定の知識が揃おうとしていた。
 宗教的熱情すら内包したこの動きは、しかし”予期せざる特異点”に目を光らせる人工知能作成に関する慎重派に警戒心を抱かせることとなった。

 「苦痛を感じられる程度に高度な神経系を持つ人工生命を生み出すことへの慎重さは何よりも優先されるべきです。自分たちにとってそれが望まないものなら。」
 彼は説明を続けた。スクリーンはいつの間にか消され、会議室に電灯がともった。
 私は道徳的義務感が全ての理由ではないことくらい知っている。子が親を凌駕すること、つまり自分たちの手に負えない知性の誕生が生み出されることへの各国の恐怖だ。知的生命の苦痛を取り除く道徳的名目を理由に、進化的方法を含むあらゆる人工知能開発が監視されている。そうでなければこの組織はこれほど大きくはならなかった。今や基準以上の計算能力を持つコンピューター全てが拡張生物倫理機構の監視下にある。その目をかいくぐる研究者はいずれ出てくるだろう。しかし現時点では高度な技術の集積である最新型計算機全てをトレースするのは難しいことではない。
 「だが既に成し遂げられたなら法の下で然るべき裁きを受けなくてはならない。」
 「進化創発主義者が成功したのですか?あなた方の監視の目を抜けて?」
 驚きは自然に質問になっていた。そのような噂は聞いたことがない。部外者である私にとっては当然だが。しかしそれを私に漏らす理由は何だ? 淡々とした彼の短い説明の行く先は未だ分からなかった。
 「そういうことではないのです。しかしそのように誤解されるのも当然でした。突拍子のないことだと思われるが聞いていただきたい。」
そう言うと彼は向かい側に腰掛けてバインダーを開き、私のプロファイルが書かれた紙を取り出した。見慣れたロゴマークが右上にプリントされている。私の所属する研究所から提供されたものだ。
 「この宇宙の物理法則が私たちにとって驚くほど優しいものであることはよく知られています。まるでそれこそが――私たちを生むことが目的であるかのように。弱い人間原理的視点では目的なるものは排するでしょう。ですが我々は目的が存在する可能性も無視できなかった。」
 話の行く先が見えてきた。当然私だってこの問題については幾度となく考えてきた。だからこそ今の研究があるのだ。
 「優しい物理法則を設定して宇宙の計算を始めること。まっさらな状態から知的生命を生み出す手段として莫大な計算能力に頼ること。人間が手を付けようとしていることそのものです。計算能力と物理法則の洗練度という点では桁が違いますが。」
 彼らは夜空に目を向けたのだ。現実世界もまたシミュレーションであるかもしれないこと。それだけなら誰だって幼い頃に考える可能性だ。しかし彼らは宇宙の慈悲深さに感謝だけを向けることはできなかった。彼らの職業がそうさせた。
 「この宇宙が誰かの計算によって始動させられたなら、その『誰か』は法の下で裁かれなければならない。そう呼びたければクリエイターと呼んでくださっても構いません。歴史的経緯から色々な意味が付加されてしまっていますが、この言葉が指す対象はそれほどぶれていないでしょう。私もそう呼ぶことにします。」
 私は確信した。彼が語っているのは少なくともいくつかの点では紛れもなく宗教だ。仮定上の存在に対する行動について語りすぎている。
 「クリエイターはもし存在するなら、進化に伴う痛みと悲嘆について無思慮すぎた。私たちが今ここにいることについての感謝はいくら捧げても不足するでしょう。しかし私たちの後ろに積み重なる進化の敗者の犠牲、勝者の獲得した暴力性、自己防衛に必要なあらゆる苦痛――そういったものの責任を帰する先でもあるのです。」
 「人間同士の争いは?最初に見せられた写真はそういうことを言いたかったのですか?つまり虐殺もクリエイターの責任になると?」
 「その言い方は単純化しすぎています。無論虐殺の罪は殺した者にあります。何も犯罪者の罪を別のところに移してしまおうと言っているわけではありません。ただ人間が同族を殺せるのは、そうした行動をとることのできる暴力性を持つ者が勝者になってきたから、という視点も誤りではないでしょう。」
 進化の起こる環境としてこの宇宙を用意した誰かを裁くこと。彼が求めるのはそういうことだろう。となると私の呼ばれた理由も見えてくる。
 「そのためにはクリエイターと意思疎通を交わすことが必要です。そして法廷まで連れてくること。あなたにはそのための研究をしていただきたい。」
 物理系の計算エラーに関する理論。おおよそ先ほど取り出された紙には私の研究についてそのようなことが書かれている。
 数学で記述された物理法則にしたがって系を進めるのは計算に他ならない。その精度は少なくとも我々の観測する限りでは無限だ。しかしもし誤りが起きるとすれば?既知の物理法則や計算機科学の理論から、その可能性について調べるのが私の研究だ。
 「私が把握している限り、現在のあなたの研究のいずれにも干渉するつもりはありません。専門分野を大きく変えてしまわない限り、私たちの目的に合致した研究をあなたは続けるでしょう。私の提案は、もし私たちの支援を受けてくださるなら、よりよい待遇と雑事から解放して差し上げることです。」
 彼らの思想を、彼らの正義を実行するために私を支援するという。とんだ酔狂だ。
 「しかし……私の研究が宇宙の計算基盤について解明できるという見込みは今のところ全くありません。私が進めているのは今のところ数学的理論を超えていない。どんな観測機器が必要になるのかも分からない。成果を上げるためには、仮説の検証のために現在進行中のあらゆる国際的科学プロジェクトより巨額の投資が必要になるかもしれない。」
 「構いません。どんな進展でも歓迎します。」
 「それどころか私の研究が計算基盤について何か観測することは全く不可能だと証明するという未来もありうる。基盤宇宙があってもそこは無人である可能性、クリエイターがいても完全にコンタクト不可能な形態の知性を持つ可能性……あなた方を落胆させる可能性はいくらでも挙げることができる。」
 「それも私たちの想定に含まれています。裁く相手がいなければそれもまた救いです。計算能力を持ちながら進化を実行させた無思慮さは発揮されていなかったことになるのですから。」
 私は混乱していた。研究に対するこんな惜しげのない支援の提案を予想してはいなかった。彼もそれを察しているのが分かった。
 「気前の良さを疑われるのは無理もないですね。ただ研究に対して支援したという実績を残すことだけを目的としているかのようなこの提案に。」
 彼が姿勢を正すのが分かった。これは彼らの支援者の思想なのか?それとも彼自身の信条なのか?
 「ですが方向付けを行うことそのものが重要なのです。クリエイターを裁くという方向付けそのもの。肉体だけに頼る時代が終わりを迎える前に、身体の脆弱さが人間を苛んできたその苦痛を自らの経験として忘れ去ってしまう前に、目標を立てねばならないのです。」
 事務的に感じさせるその口調に気圧されたのは不意打ちだった。これは彼自身の言葉だ。彼の正義がそう語らせているのだ。
 後になって知ったことだが、彼は若い頃に母親を亡くし、自身も遺伝的な要因の関係する自己免疫疾患の治療を続けていた。それが進化についての彼の考え方に影響を与えたのだろうか。決してそれが全てではないだろうが、おそらく部分的にはそうだったのだろう。

 帰り道に冬の夜空を見上げて畏怖を感じてみようとする誘惑には耐えられなかった。星々とその間に広がる真空を計算できる途方もない計算能力を持つ誰かが道徳的に人間にとって望ましい存在であるとは限らないのは確かだろう。しかしその誰かが仮に存在するとして、人間と何を共有しているとも知れないのに裁くことを目的と見据えながら研究することは健全だろうか? 少なくとも私がこの先耐えられるものであるとは今は感じられなかった。

 4世紀の後に、白色矮星シリウスBを巡るプローブ群を用いて行われたδ-アノマリーについての観測実験が〈下層宇宙〉物理学への扉を開いたとき、教義の継承者たちによって彼の言葉が意味のあるものであったと証明されたことを私は知ることになった。



~~~~~~~~~~終~~~~~~~~~~



「クリスタルの夜」*1、『神は沈黙せず』、「フェッセンデンの宇宙」を読んで。

 SFは定義からしてフィクションなので、少し自分からは距離を置いて空想を晒す手段として便利。
 突然こんなのを書いたのには理由があり、『夜と霧』を読んだことが最初のきっかけだった。ナチス強制収容所から生還した心理学者であるフランクルによる、収容所での過酷な経験を綴った本である。紛れもない現実として人が人を虐げることが行われたことと、これを生き延び透徹した学術的な目でもってこの記録を残した作者やその仲間がいたという現実との間の隔たりに眩暈がするような気がした。
 環境が人を形成するのだから、全く同じ状況で自分ならどうなるかと考えるのも少し無理はあるが、しかし人間は高潔な精神を持つことができる一方で、先天的に悪の実行を自ら妨げる能力が備わっているわけではないということを改めて認識させられたのだった。思考能力の不備と環境の要請があれば人間は人間を殺せる。
 となると思い出されるのが『虐殺器官』だった。「虐殺の文法」とは、人が人を殺せるようにできているという脳のある意味での欠陥を突いて集団を自壊させられるプログラムなのだった。人間は進化の過程で同族を殺せるようにできてきたという事実が、いくらか誇張気味にではあるが皮肉的に描かれている。やや牽強付会であるようにも自覚するが、そう解釈すると用意された科学的下地のいくつかが腑に落ちる気がした。

 覚え書きしたいことはそれだけだったのだが、自分が進化の産物である他ならぬ現実の不気味さ(というと言い過ぎではある)から妄想を膨らませていったら創造主を裁くというような「いかにも」な話に繋がってしまった。だいたい「クリスタルの夜」のパロディー未満の何かである。『夜と霧』を読んで書くのがこれか、と不誠実さであるように感じる部分もあるが容赦してほしい。なお「クリスタルの夜」もナチスドイツ下でのユダヤ人に対する集団的な暴動と虐殺が行われた事件「水晶の夜」Kristallnachtに由来している。

 人工食用肉に関する部分は特に何も調べずに書いてかなり無責任だが前々から興味はある。将来の、自分たちが経験することになる食の形としてありうるのか?昆虫食やペースト状謎食物が皿に並ぶ未来と同程度にはありそうな気もする。

*1:グレッグ・イーガン「クリスタルの夜」"Crystal Nights"は原文がここで公開されている。 http://ttapress.com/553/crystal-nights-by-greg-egan/ 日本語訳は『プランク・ダイヴ』に収録。

クロックワーク・ロケットをとばす

グレッグ・イーガン『クロックワーク・ロケット』を考える記事(ネタバレ含む)

「山のどれくらいが太陽石だと考えているの?」ヤルダは訊いた。
「質量でたぶん三分の二」
ヤルダは背中を使ってすばやくいくつかの計算をした。
「それは四空間での四分の一回転の一回分にはじゅうぶんそうだけれど、旅の全体分をまかなえる見こみはまったくないわ」
(p.246)

 〈孤絶山〉をロケットとして打ち上げ無限の速度――母星に対して――まで加速して必要なだけの時間を得ること、それがエウセビオの計画だった。世界消失の危機に際してヤルダにこの途方もない解決策を提案する場面は1巻の折り返し点でもあり読んでいてじいんとした。できたばかりの「回転物理学」を使って種族を救う!工学者としての実現可能性にまでしっかりと言及しているからこその力強さだ。よく使われるフレーズではあるが、「ハードSFならではの感動」がここにあるだろう。

 さて、上の引用はその提案のちょっと後に続くヤルダとエウセビオの会話である。「四分の一回転」とは無限の速度まで加速することだが、〈孤絶山〉の三分の二を占めるという太陽石の量がこれに十分であることをヤルダはどのようにして出したのだろうか?回転物理学を使ってこれについて考えてみる。

 ……前に一つずつの問題に際して馴染みのある私たちの宇宙でのロケットの加速について述べる。こっちのほうが簡単なので。

 注意として、以下しばらくこっちの宇宙での光速をc、ヤルダたちの宇宙の青い光の速さをbとして区別することにする。両者は本質的に同じものだが、分かりやすいようにするため。

ツィオルコフスキーの式
 ロケットの加速と質量の関係はニュートン力学の範囲では、つまり相対論を無視できる速度のときはどちらの宇宙でも次の簡単な式で表せる。
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 ΔVが加速、wが推進剤の噴射速度、M0が加速前の質量、Mが加速後の質量である。
証明は質量保存と運動量保存から。
参照:ツィオルコフスキーの公式 - Wikipedia

 加速を大きくするには推進剤の噴射速度を大きくすること、加速後の質量を小さくする=燃料積載量を大きくすることが必要になる。相対論・回転物理学でも基本は同じだが、光速に近づくにつれそれぞれその振る舞いは変わっていく。

 〈孤絶〉を回転させるための山肌へのエンジン用の穴の掘削中に、ヤルダが荒石を詰めた袋ごとカタパルトで投射されて漂流する場面があった。*1衝動的に投げ出してしまわず冷静に分析するヤルダに科学者としての賢明さを感じて惚れ惚れとするが、ここで彼女が考えたのはwをいかに大きくするか、ということだった。必要なΔVは孤絶から離れていくより大きな速度。体に蓄えられた化学エネルギーを限界まで活用するため、全力で投げられるだけの小さい石片ごとに投げることで解決しようとしたのだった。


座標変換
 特殊相対論では、S系(ct, x)に対して速度vで動く点が静止しているように観測されるS'系(ct', x')への座標変換は、座標原点を一致させてかつ空間回転は無いものとすると次のように行列を使って表される。
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 一方、回転物理ではS系(bt, x)からS'系(bt', x')への変換は
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のようになる。ローレンツ変換に対してウィック回転の考え方を使ってtをitに、vをivに置き換えると簡単に得られるが、素朴に計量が形を変えないこと(つまり直交行列になること)と変換の相対性から導くこともできるだろう。ややごちゃごちゃした見た目だが、座標軸の原点を中心にした回転をパラメータvで表しただけ。vに平行なxの成分をx∥、垂直な成分をx⊥とすると、
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と分かりやすく表せる。

4次元空間での座標変換を表してみたが、専ら直線的な運動を扱うためよく見る2×2行列による変換で充分だろう

私たちの宇宙
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ヤルダたちの宇宙
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ここから相対論的な(あるいは回転物理の)速度の合成則が出せる。
S'系で速度wの点がΔt'の間にΔx'=wΔt'動くとすると、上の逆変換から、S系での座標差と速度は
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同様にしてヤルダたちの宇宙での速度の合成則は
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これらを使って相対論的なロケットの加速を考える。


相対論的なロケット
 母星を発ったロケットが速度Vで動いている瞬間を考える。これが静止して見える系S、すなわちロケットとともに速度Vで運動する系で見る。「四空間」(4次元時空)上ではこれはロケットの「来歴」(世界線)に接する直線を時間軸、それと直交する3次元部分空間が空間となる系として捉えることができる。

 この瞬間を母星系で時刻t、次の加速後を時刻t+dtとする。この間にロケットが静止質量dμの推進剤*2を後方に速度wで噴射したとすると、4次元的な運動量の保存則から次の式が得られる。
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せっかくcとbで区別していたがまとめて扱ってしまうためcで統一した。複号は上の-が相対論、下の+が回転物理。
微小量dvは加速後のロケットのS系での速度である。微小量の1次の項だけ残すと、等式は
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と書き換えられ、さらにdμを消去すると
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を得る。速度の合成則から、t+dtでの速度は母星系で
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dvを消去した後変数分離して積分すると、
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t=0で速度0、質量M0として積分定数を決めた。見てのとおり符号の違いがtanhとtanの違いをもたらしている。図示するとこの通り。原点近傍で3つがほぼ一致していることも分かる。
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推進剤の噴射速度を大きくするほど、加速後のMを小さく(燃料の質量比を高く)するほど最終的に得られる速度が大きくなるのはどの場合も同じだが、相対論では光速cが壁になっていることが分かる。一方回転物理では有限の燃料で無限の速度に達することができる。
その量は質量比で
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これが往路での加速に必要な太陽石の質量比の下限ということになるだろう。
仮にエウセビオの言った通り2/3だとすると、
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と熱したガスは紫外線(青い光の約1.5倍程度の領域)程度の噴射速度が必要になる。

――という結果を得たがガスをそんなに高速で噴射できるだろうか……。
それよりありそうな可能性は光の運動量の寄与が無視できないほど大きいということのような気がする。*3

 ではもし速度無限の推進剤を、すなわち「紫外極限」の光だけを放出することができるとしたら?数学的な極限操作に対して大らかになればそれは燃料を消費することなく推進できることを意味する。それこそが〈永遠の炎〉であり、この実質的な第二種永久機関を見つけ出せるか否かに〈孤絶〉が故郷に帰れるか否かが賭けられているのだった。


燃焼効率
 私たちの宇宙でもっとも効率がいい推進剤は質量を全てエネルギーに変えてしまえるもので、それは通常物質と反物質との反応になる。質量Mのロケットがそのうちdmの推進剤を後方へ速度wで噴射して速度dVを獲得するとする。そのうちさらに割合εがエネルギーに変わる(質量欠損)とき、4元運動量の保存から、
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時間成分にのみ注目すると、
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 これが推進剤の噴射速度wと変換効率εの関係になる。化学燃料や核分裂核融合を使う限りεは極めて小さいが、もしε=1を実現できればw=cとなり、質量を全てエネルギーに転換できる。物質と反物質対消滅によるγ線の放出によってこれが実現される。

 ではヤルダたちの宇宙ではどうか。今度は質量欠損ではなく「質量獲得」が起こる。
さっきと同じような状況で、しかし推進剤が割合εの質量を得るとして計算する。
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 乱暴な計算だがここでwdmを一定値dpに保ちながらwを無限大とする。すると
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 と、ロケットからの質量の損失dmがゼロでありながら加速することができる。これがエネルギーの保存則に反することなく、光を放つだけで加速させることのできる〈永遠の炎〉だ。

 同じようなことは私たちの宇宙ではできない。もっとも効率が良くてεを1にすること、つまり物質-反物質対消滅による推進が限界になり、燃料無しに自力で加速することはできない。〈永遠の炎〉はある意味で反物質による推進に例えることもできそうだが(「ネレオの矢」の話などいかにもそれらしい)、決定的な違いがここにある。


光子
 計算していて気になったことだが、ヤルダたちの宇宙では光子が静止質量を持つとみなせるらしい。(そもそも「光子」に対応するものが存在すると考えてもいいのか分からないが、四空間上の波数ベクトルに平行なエネルギー運動量という概念をヤルダたちはかなり自然なものとしてみなしているように感じる。)私たちの宇宙と違ってノルムが0のベクトルは0ベクトル意外に存在しない――正定値計量として当然の性質――ため、運動量を持つなら必ず大きさも持つことになるためだ。定量的な解釈は量子論以前にとりあえず古典的な光の場の理論(≒電磁気学)を待たねばならないが、私たちの宇宙との面白い違いだ。

第三宇宙速度
 今までとほとんど関係ない話だが、エウセビオが小型ロケットの試験打ち上げを行う場面でさらっと第三宇宙速度が第二宇宙速度の3倍であることに言及される(p.273)。ちなみに私たちの地球と太陽ではその比は1.5倍程度。だが「ハビタブルゾーン」の概念も違う(そもそも液体が存在しない)ためここから言えることはほとんどなさそう。


気になること
 話が再び回転物理でのロケットの加速に戻るが、w/cln(M0/M)をπ/2に近づけてそれを超えてしまっても普通に意味を持ち、それは負の無限大の速度から速度0へと近づいていく加速を意味する。四空間上で考えれば話は簡単で、時間軸に垂直になったのち負の傾きを持つようになるということ。しかしそのとき〈孤絶〉は母星とその周りの星の「時の矢」に対して遡ることになる。ベネデッタは往路で疾走星や直交星群の「時の矢」に逆らうことになることを心配して探査機によってそれを晴らしたが、母星の属す星群に対するそれはどう考えればよいのだろうと気になった。


まとめ
 タイトルにも含まれる「ロケット」について改めて考えてみた。〈孤絶〉の燃料の質量比を計算するための太陽石の燃焼効率の数値などを探してみたが見つからなかったので残念。しかし少なくともこっちの世界での核分裂並の激しさ、ひょっとしたら対消滅くらいに捉えてもいいのかも。『ディアスポラ』でも5+1次元マクロ球での化学反応が核融合によって進むという説明があったが、物理法則が違えばスケールも変わるものだ。この作品を読むと改めて私たちの宇宙のスケールに縛られていてはいけないことを感じさせられる。

 続きがとても気になるためOrthogonal2巻"The Eternal Flame"に挑戦し始めてみたが、英語で躓いてトホホ状態になった。ゆっくり読みながら私たちの宇宙の物理の知識も備えなければ……。

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shironetsu.hatenadiary.com

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

*1:ゼロ・グラビティだ!……と言いたいところだが未見だった(知ったかぶりよくない)。一幕の事件とはいえ、アーサー・クラークや野尻抱介の短編のような味わいがある。

*2:実はこれはゼロにもなりうるので問題があるが一応その場合も含む表式が(結果的に)得られる。

*3:あるいは単に僕の計算間違いか……。